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「支那事変やり度くなかつた」昭和天皇侍従の日記発見
「支那事変やり度くなかつた」昭和天皇侍従の日記発見

 太平洋戦争の開戦前から終戦にかけて昭和天皇の侍従を務めた故小倉庫次(くらじ)氏が、昭和天皇の“肉声”を記録した日記が見つかった。

 「支那事変はやり度(た)くなかつた」という戦争への思いや、当時4歳だった義宮(よしのみや)(常陸宮さま)を青山御所に移す方針に「宮城(きゅうじょう)(皇居)の方がよくはないか」など手元での養育にこだわったことが記され、昭和天皇の素顔がうかがえる。

 日記は、10日発売の月刊「文芸春秋」4月号に掲載される。当時の宮内省の用紙約600枚に、1939年(昭和14年)5月から終戦の45年(同20年)8月までの日記が、旧仮名遣い、カタカナで書かれていた。

 それによると、関東軍がノモンハンを攻撃して敗退した直後の39年7月5日には「板垣(征四郎)陸軍大臣、拝謁(はいえつ)上奏(じょうそう)す。陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何(ど)うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。容易に御決裁遊ばされず」と書かれ、陸軍への不信をあらわにしたことがわかる。

 40年10月12日には「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、専門の陸軍すら観測を誤れり」、41年1月9日には「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」との発言が記されていた。

 興味深いのは42年12月11日の記述。天皇は伊勢神宮参拝で立ち寄った京都御所で、「戦争は一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。戦を始めるときは、余程深重に考へなければならぬ。戦争はどこで止めるかが大事なことだ」「支那事変はやり度くなかつた。ソヴィエトがこわいからである」などと語っていた。

 一方、親の思いがにじむのは39年12月5日。当時のお子さまは親元から離して育てるしきたりで、昭和天皇は義宮を移す方針に「東宮と同居と云(い)ふことを考へてゐたが、同居になれぬ位なら宮城の方がよくはないか」「青山御所は、修理を加へても陰気だ。絶対反対」「淋しい」としぶり、承諾後も「英国は宮中にて皇子傅育(ふいく)をしてゐるが、日本では何故出来ぬか」とただすなど、手元での養育にこだわっていた。

平成19年3月9日13時34分
by unkotamezou | 2007-03-09 13:34 | 皇室