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長島茂雄 六大学最終戦で新記録八号
六大学最終戦で新記録8号

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東京六大学連盟新記録の8号ホーマーを打ち歓喜のナインに迎えられる長嶋(1957年11月3日、神宮球場)

 立教大学2年秋のリーグ戦の開幕ゲームで、早稲田相手に9回表、勝負を決める初ホームラン(3ラン)を打って波に乗ってきました。その年の暮れ、マニラでのアジア野球選手権でもホームランを打ちました。

 《1955年(昭和30年)12月に開かれた第2回アジアアマチュア野球選手権に日本は、東京六大学選抜軍を送り込む。フィリピン、韓国、台湾相手の総当たり2回戦の大会で、日本は6連勝し優勝。長嶋は本塁打1、三塁打2、二塁打4を含む12安打を放って、打率5割を記録し、いよいよその打棒は開花する》

 3年の春は2本のホームランを打って首位打者(打率4割5分8厘)も取りました。秋には3本のホームランを打って、通算で6本になった。こうなると六大学野球記録の7本にいつ並んで追い越すかに話題は集中するわけですね。

 いまでこそ、慶応の高橋由伸(現巨人)の23本が記録で、その前に法政の田淵(幸一=阪神、西武)の22本があります。なんだたった8本で新記録かと思われるかもしれません。しかしわれわれのころの神宮球場は今より両翼が10メートルほど遠くて、左中間、右中間は、うーんと広かったんです。さらにボールは今のように弾みませんでしたし、明治の秋山(登=大洋)さんや、早稲田の木村(保=南海)さんら、好投手がひしめいていましたからね。「投高打低」というんでしょうか。状況が違いました。そう簡単にホームランは出ませんでした。

 《それまでの東京六大学の通算本塁打記録は、慶応の宮武三郎(1929年)、早稲田の呉明捷(38年にそれぞれ記録)の7本。神宮球場は、26年の完成時には両翼は100メートルあったが、67年の外野スタンド改修で現在の91メートルになり、外野の膨らみも小さくなった》

 4年の春には、立教は4年8シーズンぶりに優勝しました。そりゃうれしかったですけど、ホームランは出だしの法政戦で7号を打って、なかなか続かない。こうなると記者たちも、いまかいまかと新記録を待ち構えて、報道カメラマンが私の打席の1球ごとにシャッターを切る音が打席にまで聞こえるんですよ。すごいプレッシャーです。

 そして、最後の秋のリーグ戦も最終戦の慶応の1回戦に勝った。2回戦に勝てば、春、秋連続優勝が決まって、それでおしまいです。この試合にすべてをかけることになりました。文化の日。4万人を超える満員の観客席がみんな私のホームランを待っているのがわかりました。

 慶応の先発の林(薫)は、速球とドロップぎみのカーブがいい投手で、第1打席は力んで凡退しました。そして5回裏の第2打席。ボール、ボール、ファウル、ボールでカウントは1―3。狙い球を絞ったわけではありません。ストライクが来れば打ってやるとバットを構えた。内角低めのカーブをすくい上げると、打球はレフトスタンドにライナーで飛び込みました。

 最終戦でやっと出た新記録の8号。一塁ベースをまわったところで、打球がスタンドに入ったのがわかりました。頭の中はもう真っ白で舞いあがりながらベースを一周しました。(敬称略)

2006年6月20日 読売新聞
by unkotamezou | 2006-06-20 18:30 | 冒險 競技 藝能 娯楽