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長島茂雄 “入部試験”で大活躍、立大進学
“入部試験”で大活躍、立大進学

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立教の三羽がらすと騒がれた(左から)本屋敷錦吾、杉浦忠、長嶋(1957年11月)

 高校3年の秋、10月か11月だったでしょうか、静岡・伊東での立教大学野球部の合宿では、全国の高校から入部志願者が集まりました。その実力を見てふるいにかけるわけです。さあ行くぞと「SAKURA」とネームの入った高校時代のユニホームをバッグに詰め、東京駅から国鉄に乗って出かけました。

 グラウンドへ出てみて驚きましたよ。100人近い志願者が集まりましたが、甲子園出場組がずらりといるわけです。実力では負けないと自負していましたから、気後れはしないけれど、こちらは予選敗退組ですからね。無名校扱いですよ。砂押(邦信)監督や先輩、コーチたちにアピールしなくちゃならんでしょう。先輩たちはわれわれのプレーをノートにつけて細かく評価するんですから。

 内野守備のノックを受けていても、芦屋高校の本屋敷(もとやしき)(錦吾)なんか、さっそうとゴロをさばくわけですよ。私は腰高でさまにならない。大変なところへ来たと思いましたよ。

 《本屋敷錦吾は、1952年(昭和27年)、兵庫県・芦屋高校2年生の夏、二塁手として甲子園に出場、全国優勝に貢献。53年夏の大会にも遊撃手で連続出場している》

 私はその日、調子がよくて、バッティング練習になると、打球はライナーで右中間へ伸びて、何本も外野の柵を越える。そのうちに、度の強い眼鏡をかけた砂押監督が、ケージの裏にへばりついて、ノックバットを手にじーっと見つめていましたね。

 なんとか紅白戦のメンバーに選ばれてサードを守りました。白軍のマウンドには、眼鏡をかけて学者のような男が上がった。杉浦(忠)でした。彼も無名の挙母(ころも)高校(愛知県)からの参加でした。後に右アンダースローの華麗なピッチングフォームで南海(現・ソフトバンク)のエースになるんですが、この時はまだオーバーハンドでしたね。球はめっぽう速かった。ほとんどが甲子園組の紅軍をピシャリと抑えた。そして私は杉浦から、たしか三塁打を含む3安打を放ちました。

 《そして長嶋は実力が認められ、54年春、立教大学経済学部に進学する。入学前の53年12月2日の報知新聞は1面で「六大学をめざす高校球児」を特集。立教大学の項目では「強打随一の長嶋(佐倉一高)」という3段抜きの見出しのもとで記事にこうある。「大物は長嶋で高校離れのしたバッティングはプロからも狙われたほどで、砂押監督は『将来の四番打者』と期待している」》

 とにかく、みんな野球有名校からのすごいメンバーたちでしたから。合宿に戻ると杉浦が、「やつらに比べるとおれたちは田舎ものだよなあ」とポツリとね、言いましたよ。杉浦は物静かで、練習が終わると、いつも本を読んでいました。最初に会った時は学校の先生かと思ったぐらいでね。私はというと、冗談飛ばしてわいわいやってましたがね。本屋敷は、そうですねえ、その中間でしょうか、スマートでしたよ。

 立教は私たちが4年のシーズンに東京六大学野球で春、秋と連覇して、杉浦と本屋敷、それに私は「立教の三羽がらす」と騒がれたんですが、この合宿が後にプロへ行く3人の最初の出会いでしたね。(敬称略)

2006年6月15日 読売新聞
by unkotamezou | 2006-06-15 17:57 | 冒險 競技 藝能 娯楽