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幻の1948ロンドン五輪 意地の世界記録
幻の1948ロンドン五輪 “フジヤマのトビウオ”神宮で意地の世界記録

大戦の傷…出場拒否され

 第二次大戦によって中断を余儀なくされ、12年ぶりに再開された1948年五輪以来、64年ぶりの開催が決まったロンドン。48年当時は戦勝国の英国でさえ、食料の配給制が続いていたという。それでも過去最多の59カ国・地域が参加し、スポーツの祭典の復興を祝した。だが、その復興の舞台に敗戦国の日本とドイツの姿はなかった。戦後初の五輪、ロンドン大会には戦後の英雄との因縁がある。(金子昌世)

◆◇◆

 「われわれは『プリンス・オブ・ウェールズ』を忘れない」。古橋広之進は五輪開催の1カ月ほど前に、こう記された電報が届いたと聞かされたという。第二次大戦初期、日本軍がマレー沖で撃沈した英国戦艦の名前を記した電報。48年ロンドン五輪参加の道が断たれた瞬間でもあった。

 その前年の8月、神宮プール(2003年取り壊し)では世界記録が誕生していた。戦後初の水泳の日本選手権で、日大の学生だった古橋が四百メートル自由形で4分38秒4の世界新を打ち立てたのだ。日本水連が国際水連から除名されていたため公認されない幻の記録だったが、日本には希望の灯ともなった。

 五輪で日本の力を示す-。戦後初のロンドン五輪開催を前に、水泳関係者は必死に参加の道を探った。古橋は振り返る。

 「AP通信や進駐軍などは『日本を参加させるべきだ』と支援してくれていた。だが、もともと(五輪は)無理だと覚悟はしていたんです…」

 IOCは日独の五輪参加に頭を悩ませたが、結局、開催国・英国の強い反対が流れを決めた。表向きの理由は、両国のスポーツ統括団体が戦争でなくなったこと。だが日本ではすでに日本体育協会が復活しており、説得力はない。連合国軍総司令官マッカーサーはそう主張したというが、流れは変わらなかった。

 それでも日本水連は妙案をひねり出す。日本選手権をロンドン五輪の日程に合わせて開催したのだ。大会プログラムには田畑政治水連会長(当時)の『ロンドン大会に挑む』と題した“檄文(げきぶん)”が掲げられた。

 「いうまでもなくオリンピック大会は世界選手権大会を兼ねており、もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば…ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権大会の優勝者である」

 48年8月6日。男子千五百メートル自由形決勝。神宮プールは1万7000人の観衆で膨れ上がった。古橋は予想通り橋爪四郎との一騎打ちを演じ、世界記録を21秒8も短縮する18分37秒0という驚異的な記録で優勝を果たす。2位の橋爪もわずか0秒8差で続いた。ロンドン五輪優勝のマクレーン(米国)は、19分18秒5。圧勝だった。

 「失礼ながら、そんなに遅くて何で五輪で優勝できるのかという思いだった」。古橋は当時をこう振り返っている。2日後の四百メートル自由形でも世界新を樹立。「朝昼晩とサツマイモ。あとで計算してみると、1日900キロカロリーぐらいだった」(橋爪)という中での快挙は国民を熱狂させた。

 だが、世界の反応は「日本のプールは短い」「時計がおかしいのではないか…」と冷ややかだった。そんな疑いを晴らしたのも古橋だった。

 翌年、日本水連は日本スポーツ界のトップを切って国際競技連盟(IF)への復帰を果たす。そして49年8月、古橋らはロサンゼルスで開催された全米選手権に招かれたのだ。マッカーサーから「行くからには負けるな。堂々と戦って来い」と励まされたことを古橋は、よく覚えている。この全米選手権でも世界新を連発。敗戦国から来た五尺七寸五分(約174センチ)、十九貫(約71キロ)の20歳の青年の偉業に現地の新聞も写真入りで大きく報じ「フジヤマのトビウオ」と絶賛。あまりにも有名なニックネームは、こうして生まれた。

 しかし絶頂期に五輪出場を拒まれ、その後、アメーバ赤痢にも罹患(りかん)した古橋は、ついに五輪でメダルを獲得することはなかった。

 再びめぐってきたロンドンでの五輪開催に、76歳の古橋は「改めて時代が変わったと感じる」と感慨深げに語った。

 「今度はちゃんと招待されるでしょうから、後輩たちにはロンドンで活躍してほしい」

 =敬称略
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by unkotamezou | 2005-07-08 05:00 | 冒險 競技 藝能 娯楽