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誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 四

復活
「明治百年」が契機に

 終戦から1カ月後の昭和20年9月19日国連軍が秋田に占領軍政部教育課による教育の管理が始まった。22年に赴任したモロニー課長の検閲は徹底していたという。

 この年に秋田師範を卒業中学教諭となった高橋武三さん(83)=大仙市後に大曲市教育長=は「モロニーはいきなり学校に来て検閲を始めたそうです。県民歌は(国学者の平田篤胤や錦の御旗などを歌った)3番の歌詞はもちろん1番の『神秘(の十和田)』という言葉までが引っ掛かったと聞いています」と話す。

 戦前戦中の学校では校歌とともに行事のたびに歌われていた県民歌は教育の場から消し去られた。昭和34年には「朝あけ雲の 色はえて」で始まる新しい「県民の歌」が詞曲とも公募によって決定。戦後世代が県民歌を聞く機会はなくなった。

 それが昭和43年の明治百年記念事業の中で復活する。きっかけは小畑勇二郎知事(当時)の一言だった。

 県教育庁は記念事業として「合唱と吹奏楽による新しい楽曲をつくる」と決めた。秋田市山王中学校の吹奏楽や秋田南中学校の合唱など本県の実力は全国級だった。作曲は父親が秋田出身の石井歓氏(当時桐朋学園大学作曲科教授昨年11月死去)に依頼することになった。

 同年3月同庁指導課の音楽担当指導主事だった高橋さんは課長の伊藤浩太郎さん(後に大曲市助役ことし1月死去)とともに都内の石井邸を訪ねて作曲を依頼した。その時に伝えたのは「県民の歌」はぜひ組み入れてほしいということだった。

 同年6月には石井氏が来県して小畑知事らと懇談。この時「知事が『戦前の県民歌があってこれを何とかして残したい』と話すと石井さんは『どんな曲ですか』と尋ね楽譜を見せると『なんとかしましょう』と言ってくれた。知事にも思い入れがあったのでしょう」(高橋さん)

 完成した「大いなる秋田」には第3楽章に「県民歌」第4楽章に「県民の歌」が挿入されていた。ただし県民歌は演奏のみとした。安保反対運動など左翼勢力が強い時代である。

 「大いなる秋田」は同年11月10日新築の県立体育館で中学や高校などの選抜メンバーによって演奏された。前日のリハーサルがレコードとなりジャケットの解説文には歌われなかった県民歌の歌詞が印刷されている。ただし差し障りがないと思われる2番の歌詞(「廻らす山山霊気をこめて」)のみだった。

平成二十二年十月二十九日

誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代
by unkotamezou | 2010-10-29 00:47 | 歴史 傳統 文化