2010年 10月 31日
思いをつなぐ歌の力 大曲の花火(全国花火競技大会)のフィナーレ。尺玉30連発で流れるのはシンガーソングライター津雲優さん(57)=秋田市=の「いざないの街」だ。秋田を宣伝しようと昭和58年に作ったこの歌には県民歌が2番まで挿入されている。 花火と県民歌の組み合わせは演出担当の佐藤紘二さん(69)=現大会審査委員大仙市=の発案だった。以前に中学生が演奏する「大いなる秋田」を聴き県民歌を「おれの古里は秋田なんだと胸を張れる歌だと思った」という。演奏を編集して60回記念大会(昭和61年)の大会提供花火で使いその2年後からは津雲さんの歌をフィナーレで流している。 大曲の花火は全国にテレビ中継されており背景で流れる津雲さんの歌は県民歌ファンの掘り起こしに一役買っている。 秋田若杉国体(平成19年)式典専門委員長だった大友康二さん(80)=元県生涯学習センター所長秋田市=は「入場行進に『県民歌』と『県民の歌』のどちらを使うか委員会に諮ったら圧倒的に県民歌がいいとなった。学校の授業で必ずしも教えているわけではないが一般の認知度は県民歌が上回っているようだ。 著書「歌う国民」(中公新書)の中で県民歌の復活劇を取り上げた渡辺裕さん(57)=東大大学院教授文化資源学=は県民歌は戦前文化を再評価する動きの中でよみがえったと分析。 今戦後世代が歌いながら一体感を得ていることに渡辺さんは「一般的に人々の帰属意識の範囲が狭まりつつある中この歌があることで秋田県民という共通意識がつなぎ止められている面もあるのではないか」と話す。 聞こえてくる県民歌はつながりを求める歌声ということなのだろう。 平成二十二年十月三十一日 誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 #
by unkotamezou
| 2010-10-31 01:19
| 歴史 傳統 文化
2010年 10月 30日
発見 戦後派も揺さぶられ 「大いなる秋田」の中では演奏のみの県民歌だったが初演から2年後の昭和45年6月県民会館で行われた東京交響楽団の演奏会で初めて歌われることになる。そこには戦前世代の強い意志が働いていた。 同交響楽団を指揮した佐藤菊夫さん(80)=秋田市生まれ東京都世田谷区=は「私自身土崎小学校時代に県民歌を繰り返し歌い体に染み込んでいました。成田為三のあのメロディーは歌わなければ生きない。その思いで混声合唱に編曲しました」と語る。 演奏会に合唱団「カンパネラコール」を率いて出演編曲にも加わった伊藤由雄さん(80)=秋田市土崎港=も「初演時から県民歌を歌いたいなあと思っていました。私たち戦前戦中派にとっては郷愁が強かったから」と振り返る。 県民歌復活を望む声はそれ以前からあった。本県の音楽指導の中心にいた小野崎晋三・秋田大教授(故人)が県の「広報秋田」(昭和39年1月号)に「この一流人の作になる県民歌の復活を望み諸会合や教育の場でも歌われることを望んでやまない」と書いている。 初演当時教職員組合の大曲仙北支部長だった細谷昭雄さん(83)=大仙市神宮寺=は「歌うことに躊躇していたなんてまったく意外です。県民歌は戦争とは関係無いし名曲ですもの。もめ事の種になりそうなことは避けたかったということじゃないですか」と話す。 2番までの合唱付きで演奏された「大いなる秋田」は昭和46年5月には東京文化会館で佐藤さんの指揮で再演され在京の県人たちを感動させた。以来佐藤さんは首都圏での定期コンサートでほぼ5年に一度「大いなる秋田」を演奏している。 こうやって県民歌の封印は解かれた。県内では初演から数年間県主催で「大いなる秋田」演奏会が中学や高校の吹奏楽部合唱団が参加して各地で開かれた。戦後世代はこの曲を通じて県民歌を初めて知ることになった。 初演時高校の音楽教師として練習に立ち会った島森道邦さん(68)=大仙市角間川=は「出だしのユーフォニウム(金管楽器の一つ)の音が流れたときこの色合いの違うメロディーを石井歓さんはどこから引っ張ってきたのだろうと思いました。それが県民歌で成田為三の曲だとこの時に知りました。懐かしさや貴重さを別にして初めて聞いた者にも訴えるものがあった。成田という作曲者の力量なのでしょう」と話す。 平成二十二年十月三十日 誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 #
by unkotamezou
| 2010-10-30 00:55
2010年 10月 29日
復活 「明治百年」が契機に 終戦から1カ月後の昭和20年9月19日国連軍が秋田に占領軍政部教育課による教育の管理が始まった。22年に赴任したモロニー課長の検閲は徹底していたという。 この年に秋田師範を卒業中学教諭となった高橋武三さん(83)=大仙市後に大曲市教育長=は「モロニーはいきなり学校に来て検閲を始めたそうです。県民歌は(国学者の平田篤胤や錦の御旗などを歌った)3番の歌詞はもちろん1番の『神秘(の十和田)』という言葉までが引っ掛かったと聞いています」と話す。 戦前戦中の学校では校歌とともに行事のたびに歌われていた県民歌は教育の場から消し去られた。昭和34年には「朝あけ雲の 色はえて」で始まる新しい「県民の歌」が詞曲とも公募によって決定。戦後世代が県民歌を聞く機会はなくなった。 それが昭和43年の明治百年記念事業の中で復活する。きっかけは小畑勇二郎知事(当時)の一言だった。 県教育庁は記念事業として「合唱と吹奏楽による新しい楽曲をつくる」と決めた。秋田市山王中学校の吹奏楽や秋田南中学校の合唱など本県の実力は全国級だった。作曲は父親が秋田出身の石井歓氏(当時桐朋学園大学作曲科教授昨年11月死去)に依頼することになった。 同年3月同庁指導課の音楽担当指導主事だった高橋さんは課長の伊藤浩太郎さん(後に大曲市助役ことし1月死去)とともに都内の石井邸を訪ねて作曲を依頼した。その時に伝えたのは「県民の歌」はぜひ組み入れてほしいということだった。 同年6月には石井氏が来県して小畑知事らと懇談。この時「知事が『戦前の県民歌があってこれを何とかして残したい』と話すと石井さんは『どんな曲ですか』と尋ね楽譜を見せると『なんとかしましょう』と言ってくれた。知事にも思い入れがあったのでしょう」(高橋さん) 完成した「大いなる秋田」には第3楽章に「県民歌」第4楽章に「県民の歌」が挿入されていた。ただし県民歌は演奏のみとした。安保反対運動など左翼勢力が強い時代である。 「大いなる秋田」は同年11月10日新築の県立体育館で中学や高校などの選抜メンバーによって演奏された。前日のリハーサルがレコードとなりジャケットの解説文には歌われなかった県民歌の歌詞が印刷されている。ただし差し障りがないと思われる2番の歌詞(「廻らす山山霊気をこめて」)のみだった。 平成二十二年十月二十九日 誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 #
by unkotamezou
| 2010-10-29 00:47
| 歴史 傳統 文化
2010年 10月 28日
似通う歌詞(下) 郷土愛は変わったか 東京音楽学校に県が制作を依頼した県民歌は倉田政嗣の詞に高野辰之が手を入れ成田為三が曲を付けて完成。昭和5年10月30日県記念館(現在の県民会館の場所にあった)で開かれた教育勅語発布40年記念式で参列者が合唱した。 高野は「故郷」などの小学唱歌を多く作詞した国文学者で東京音楽学校教授も務めた。成田は「浜辺の歌」で知られる北秋田郡米内沢村(現北秋田市)生まれの作曲家で同校卒業生。ドイツ留学も経験していた。倉田と成田は秋田師範の同期生でもあった。 「山も湖もきれいで立派な学者も生んで。県民歌は新沢小学校(現由利本荘市下川大内小)の音楽の時間に教わりました。いい歌だと思いましたよ。あの時代は郷土愛がそのまま愛国心につながっていました」と話すのは秋田の近現代史に詳しい田口勝一郎さん(87)=県歴史研究者研究団体協議会顧問。 田口さんが秋田師範学校に入学したのは昭和12年。秋田市保戸野にあった校舎2階の一室には土器や古文書などが展示されていた。県民歌の歌詞を審査した和田喜八郎が校長時代に開いた郷土室である。 歴史や文化偉人を知ることで郷土を愛しその発展に寄与できる人材を育てようというのが昭和初期に盛り上がった郷土教育運動だ。その中心に和田がいた。 田口さんは「師範学校の郷土室で歴史に興味を持ち私も大正寺小学校(秋田市雄和)の校長となったとき郷土室をつくりました。自分たちの先祖がどう生きてきたかを考えてみようという郷土学習の手掛かりにするためです」と語る。 平成二十二年十月二十八日 誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 #
by unkotamezou
| 2010-10-28 00:33
| 歴史 傳統 文化
2010年 10月 27日
似通う歌詞(上) 戦前の姿が鮮やかに 県民歌は教育勅語の発布40年記念事業の一つだった。県が歌詞を公募し入選の5編を東京音楽学校(東京芸大の前身)に送って作曲を依頼した。歌詞の条件は「郷土愛を高調し県民意気を鼓舞」する内容であること。5編が昭和5年10月10日付の県報に載っている。 入選者のうち3等の倉田政嗣(まさつぐ)(仙北郡横沢村現大仙市)は小学校教員を病気退職して療養中の身。佳作の1編は花岡尋常高等小学校(北秋田郡花岡村現大館市)名での応募だった。 どちらも歌詞は4番まであり鳥海山や男鹿半島十和田湖などの名勝地を並べ鉱山や杉米など資源の豊かさを歌う。戊辰戦争で「錦の御旗」(官軍の旗)を掲げて戦ったことも誇る。花岡小の「平田佐藤の二柱」とは秋田が生んだ江戸時代の学者平田篤胤と佐藤信淵を指す。 元花岡小学校教諭で県歴史教育者協議会の富樫康雄さん(75)=大館市=は二つの歌詞を見比べて「郷土愛を喚起するというのであればおのずと似た歌詞になるということでしょうか。当時の花岡小には後に教育長や学校長になる青年教師がそろっています。学校を盛り上げようという彼らの気概が一致して歌詞の応募になったのかもしれません」と話す。 この2編だけでなく入選歌詞5編に盛り込まれた風物や歴史は重なり合うところが多い。当時の秋田魁新報によれば応募した41人の多くは小学校の教員だった。 歌詞を審査したのは教員養成学校である秋田師範学校や女子師範の教諭旧制秋田中学の教諭県の社会教育主事ら6人。筆頭は秋田師範校長の和田喜八郎だった。 北秋田郡鷹巣村(現北秋田市)生まれの和田は秋田師範教諭だった明治33年に「秋田県唱歌」を作詞している。「汽笛一声 新橋を」で知られる鉄道唱歌にならって秋田県内一円の名所旧跡を盛り込んだ歌詞は66番まであったという。 「日本海を西にうけ 御物米代子吉川 三つの流れの潤いも 広くゆたけき秋田県」「秋田神社にぬかづきて いさお仰ぐや佐竹侯 招魂社には国のため 忠死の人をしのぶかな」「西にほどなき町ぞこれ 世にも名高き農学者 信淵翁の生まれたる 西馬音内てうところなる」 この時期全国各地で同じような唱歌が作られている。地理や歴史の知識を歌うことで子どもたちに身に付けさせようという意図があった。 秋田県唱歌の内容は教師たちにとって必須の知識でもあっただろう。県民歌の歌詞とも通じ合う。 平成二十二年十月二十七日 誕生八十年秀麗無比なる 県民歌の時代 #
by unkotamezou
| 2010-10-27 00:09
| 歴史 傳統 文化
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