ブログトップ
<   2005年 06月 ( 28 )   > この月の画像一覧
皇位継承、離脱皇族の復帰も検討…有識者会議
皇位継承、離脱皇族の復帰も検討…有識者会議

 小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(吉川弘之座長)は30日の第8回会合で、安定的な皇位継承策として、これまで議論の中心となってきた女性天皇の是非だけでなく、皇籍離脱した皇族の復帰などによる宮家の創設も検討することを決めた。

 皇室費用の縮小などを図った1947年の皇籍離脱では、昭和天皇の弟である秩父宮、高松宮、三笠宮以外の11宮家が皇族の身分を離れている。

 5、6月に実施した意見聴取で、複数の学者が「離脱した宮家を復帰させ、男系男子の継承を維持すべきだ」と主張したため、今後、より詳しく検討することにした。

 吉川座長は会合後の記者会見で、「(女性天皇と)2つを考え、最終的な案に絞る。いずれも皇位継承者を増やすことになる。どちらが社会に受容されるかだ」と語った。

 また、7月26日の第10回会合で、これまでの議論をまとめた「論点整理」を作成することも決めた。8月には、インターネットを通じて意見を募集する予定だ。

 吉川座長は「長子優先とか、男子優先とか、そういう(方向性を示す)内容にはしない。中立的な案を出し、国民の意見を聞きたい。9、10月に(会議の議論を)集約したい」と述べた。

2005年6月30日21時31分 読売新聞
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-30 21:31 | 皇室
両陛下、サイパンご訪問 激戦の地、黙礼
両陛下、サイパンご訪問 激戦の地、黙礼

 【サイパン=河嶋一郎】戦没者慰霊のためサイパン島を訪問した天皇、皇后両陛下は二十八日、島北部の中部太平洋戦没者の碑などに足を運び、この地の激戦で亡くなった多くの将兵、民間人らを追悼された。

 先の大戦中、昭和十九年六月から七月にかけてのサイパン戦では、日米の軍人、民間人、地元民ら合わせて六万人以上が亡くなった。中部太平洋戦没者の碑は、サイパンを含む中部太平洋で戦没した人々を国籍を問わず対象としている。両陛下それぞれが供花し、静かに頭を下げられた。

 続いてマッピ山北側で米軍に追い詰められた多くの日本兵、民間人が身を投じたスーサイドクリフのがけで黙礼された。さらにバンザイクリフでも、切り立ったがけから海を望みながらたたずまれた。

 この後、当初予定として公表されなかった沖縄出身者の慰霊碑「おきなわの塔」と朝鮮半島出身者の慰霊碑「韓国平和記念塔」に立ち寄り、ご拝礼。同日午後には島中部の敬老センターを訪問し、夜、政府専用機で帰国された。



■両陛下、戦禍の伝承願われ

 天皇、皇后両陛下の初めての慰霊のための海外ご訪問が無事終了した。遺族や旧日本兵らの高齢化が進む中、自ら外地へ赴いたことは、過去に埋もれてしまいそうな激戦の記憶をまさに身をもってよみがえらせようとされたといえる。それはかつて述べられた「語り継ぐこと」につながっている。

 陛下は、今年一月の新年「歌会始の儀」で次の御製を披露された。

 戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出づかの難(かた)き日を生きし人々

 平和な時代が続いた戦後を顧みるとともに、苦難の時代を生きた人々への率直な思いを表現された。サイパンは外地にあって戦争に翻弄(ほんろう)された場所の一つだった。

 陛下は戦後五十年にあたる平成七年、長崎、広島、沖縄、東京と慰霊の旅を果たし、同年十二月のお誕生日会見で「戦争の惨禍については今後とも若い世代に語り継がれていかなければならない」と答えられた。

 平和を希求する姿勢は、戦争の悲惨さ、過酷さを理解するところから始まるが、時代も人々も変わる。この体験を次代に伝えていくことの難しさを陛下ご自身が感じているからこそ、語り継ぐことの重要性を訴えられたのだろう。今回、陛下はサイパン訪問前から遺族や生還者らと対話を重ねられた。現地入り後も多数の人と会話を交わされた。人々の戦争の記憶を語り継ぐことを自らに課されるかのように。

 二十七日、出発前に陛下は「今日のわが国が、このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを、これからも常に心して歩んでいきたい」と述べられた。このお気持ちをそのまま実践されていた。(サイパン 河嶋一郎)
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-29 05:00 | 皇室
靖国神社に顕彰碑 パール判決の意義を刻む
靖国神社に顕彰碑 パール判決の意義を刻む

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐり、いわゆる「A級戦犯」の位置付けが問題になる中、極東国際軍事裁判(東京裁判)で全被告の無罪を主張したインド代表判事、ラダビノード・パール博士(1886-1967年)の業績をたたえる顕彰碑が東京・九段の靖国神社境内に建立され、25日、インド大使館関係者らを招き除幕式が行われた。同神社は「日本無罪論を展開したアジアの学者がいたことを思いだしてほしい」としている。

 顕彰碑は高さ2.1メートル、幅1.8メートルで、京都市東山区の霊山(りょうぜん)護国神社境内に設置されている碑と同じ形状。パール博士の上半身を写した陶板が埋め込まれ、全員無罪とした東京裁判の個別意見書(パール判決)の意義などが刻まれている。

 パール博士は東京裁判の11人の判事中、唯一の国際法学者で、同裁判の実態を「戦勝国が復讐(ふくしゅう)の欲望を満たすために、法的手続きを踏んでいるようなふりをしている」と看破。米軍による原爆投下などにも触れた上、東条英機元首相ら判決が「A級戦犯」とした被告を含む全員の無罪を主張した。「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には…過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」と予言したパール判決はその後、世界中の多くの政治家や学者に認められている。

 除幕式にはインド大使館のビー・エム・バリ駐日武官を含む関係者約40人が参加。神式の祭典の後、建立に協力したNPO法人「理想を考える会」の羽山昇理事長が、「顕彰碑が靖国神社に設置された意義は大きい。歴史に対する自虐的風潮などの根源は東京裁判にあり、その問題性を見直すきっかけになれば」とあいさつした。

2005/06/26 13:09
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-26 13:09 | 國防 軍事
戦後六十年 サイパン陥落(上)昭和十九年
【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 サイパン陥落(上)昭和19年

月光照らす地獄

 「ただただ私は、兵隊さんたちがかわいそうで、助けてあげたかったのです」

 菅野静子(79)=神奈川県逗子市=は今も、毎年六月になると、サイパン戦の三週間を思わずにはいられない。

 昭和十九年当時、「南洋の東京」といわれる繁栄を誇ったガラパンで、水産会社に勤める十八歳の少女だった。家族は近くのテニアン島に住んでいた。米軍上陸翌日の六月十六日から、七月七日の玉砕まで、菅野は民間人が入れない陸軍の野戦病院に行き、志願して看護婦となった。「病院」といっても、施設があるわけではない。すり鉢状の盆地に、負傷兵が並べられているだけ。「地獄というものがあれば、こんな所だろうと思ったものです」。菅野は当時を振り返った。

◆◇◆

 六月十一日に始まった米軍の空襲によって、ガラパンには負傷者があふれていた。菅野は職場に運び込まれる負傷兵を前に、見よう見まねで傷口にほぐしたたばこをあて、引っ張り出した下着のゴムで止血した。山の洞窟(どうくつ)に避難した後も、負傷者の手当てに尽くしたが、十五日に米軍の上陸が始まると、水源地ドンニーにあるという野戦病院に向かった。

 南洋特有の明るい新月が、野球場のような盆地に並ぶ重傷兵を浮かび上がらせていた。「看護婦を志願してきました」。自然に言葉が出た。

 「ありがたいが、早く山を下りなさい」。周囲から「隊長殿」と呼ばれる中年の院長と押し問答になり、菅野はせきを切ったように話していた。

 「家族はみんな死んでしまいました。何でもしますから、ここで働かせてください」

 少佐の襟章を付けた隊長は菅野の話を聞き終わると、自分の赤十字の腕章を外し、菅野の細い腕に巻きつけた。

 「あんたはこの野戦病院の特志看護婦だ。ただしここは軍隊だ。苦しいこともあるけれど、我慢してしっかりやるんだよ」

 さっそく三人の軍医、七人の衛生兵と手術を手伝った。手負いの兵士は三千人以上。懐中電灯で手元を照らしながら、ざくろのように割れた傷口に、食い込む黒い破片を取り除く。うみと血で固まった包帯を替え、傷口に群がるウジを取り除いた。

 しかし破傷風が蔓延(まんえん)し、日を追うごとに死体を捨てる作業が増える。頭はぼやけ、手だけが機械のように動く。不眠不休の手当ての合間、水をくみに現場を離れると、空気がうまかった。

◆◇◆

 米軍の攻撃は激しさを増した。六月二十六日夜、ドンニー最後の食糧が配られた。乾パン一袋と缶詰一つ。手榴弾(しゅりゅうだん)は七人に一つずつしか渡らなかった。サイパン守備軍の司令部から、野戦病院閉鎖命令が出ていた。患者を戦闘に巻き込まないためではあったが、それは同時に重症患者の自決も意味する。隊長が強い口調で言った。

 「命令により、本野戦病院はマタンシャに移動する。気の毒だが、歩行できない者は残す。日本軍人として恥じない最期を、遂げてくれ」。傷ついた若い将校がかすかに声を出した。「看護婦さん、『九段の母』…知ってるか」。老母が靖国神社に戦死した息子に会いに行く。そんな情景を描いた歌だ。

 小さな声で四番まで歌うと、重傷兵から「おれたちは、靖国神社に行くんだな」「そうだ靖国で会おう」の声が上がった。間を置いて隊長が、小さな声で出発を告げ、一行は歩き出した。菅野も続いた。「看護婦さん、ありがとう」「隊長殿、軍医殿、看護婦さん、さようなら」「看護婦さん、死んではダメだぞ」

 菅野は振り返らず、走った。背中越しにバンバンと炸裂(さくれつ)音が続いた。「お母さん」「タケボー」。家族の名を呼ぶ声。頭にカッと血が上り、足がもつれた。

◆◇◆

 菅野は七月六日、マタンシャの野戦病院を出るよう命令され、いったんは出発したが、七日明け方に再び病院に戻った。

 「おれの気持ちが分からんのか。早く出ろ。敵が来たらこれを持っていけ」

 隊長は白いハンカチを押し付けた。しかし壕(ごう)の外にはもう、米兵が迫っている。飛び出す兵士は撃たれた。

 日ごろから「日本の金鵄(きんし)勲章を、みんな看護婦にやりたいくらいだ」といたわってくれた隊長は、「自分は最後まで、金鵄勲章をやれなかったことを残念に思って死ぬ。君だけは生きて、野戦病院はここで全滅し尽くしたと、友軍に伝えてくれ」と言い、拳銃をのどにあてた。倒れかかる若い軍曹の体重を感じながら、菅野は手榴弾を握った。米兵の姿が大きくなる。「死ぬのは怖くなかったんですが、自分がここで死んだ、と誰も言ってくれないのがとても寂しかった」。手榴弾の安全ピンを抜いた。

◆◇◆

 目覚めたとき、菅野は米軍の前線司令部のベッドの中だった。外国人の姿に声も出ない。若い将校が日本語で「あなたは助かった」と、野戦病院唯一の生き残りであることを告げた。重傷を負っていたが、懇願してその日のうちに収容キャンプに移された。

 トラックに寝たまま、七夕の月を眺めた。サトウキビ畑に数珠つなぎに横たわる民間人の遺体。島北部に近づくと、日本語を話す将校が「海にも、たくさん死んでいます…見ますか」と聞いてきた。将校らが三人がかりでバンザイクリフの際まで運んでくれた。「多分、私があの光景を見た初めての日本人でしょう」

 月光がキラキラと反射する波間に、浮かんでは沈む多くの人影。がけの途中に突き出た木の枝に、服の端切れが引っかかっていた。

 「日本の人はなぜ、こんなに死ぬのでしょうね」

 涙をこぼす将校の言葉を、菅野はうつろな心で聞いていた。月がやけに明るく、国民服姿の大人や子供の顔まで、あまりにはっきりと見えた。=敬称略

(飯塚友子)
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-26 05:00 | 國防 軍事
両陛下、あすサイパンご訪問
両陛下、あすサイパンご訪問

 天皇、皇后両陛下は、先の大戦で激戦地となった米自治領サイパン島を、慰霊のために二十七日から一泊二日の予定で訪問される。戦後六十年の節目で、両陛下の強い思いから実現した。通常、両陛下の外国訪問は友好親善を主な目的としており、今回はきわめて異例。

 サイパン島は第一次大戦後、日本の委任統治領となった。

 沖縄から多くの人が移住、主に製糖業に携わり、栄えた。しかし、大戦勃発(ぼっぱつ)後、米軍は日本本土に対する攻撃の拠点とするため、昭和十九年六月十五日、同島に上陸。激しい戦闘の末、日本軍は玉砕した。米側は七月九日に占領を宣言。犠牲者は日本側が軍人、民間人合わせて約五万五千人、米側も近くのテニアン島を含めて約五千人、現地人約九百人とされている。

 両陛下は二十七日夕、サイパン入りされる。二十八日午前、日本政府が島北端に建てた中部太平洋戦没者の碑、民間人らが多数自決したスーサイドクリフ、バンザイクリフと呼ばれる崖(がけ)、アメリカ慰霊公園をご訪問。高齢者施設に立ち寄り、同日夜帰国される。

 両陛下は戦後五十年にあたる平成七年には国内で広島、長崎、沖縄、東京を訪れる「慰霊の旅」をされている。
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-26 05:00 | 皇室
サイパンご訪問を前に 両陛下に九人が戦争体験談
サイパンご訪問を前に…両陛下に9人が戦争体験談

 天皇、皇后両陛下は21日午前、サイパン島への「慰霊の旅」を前に、遺族や戦友会、戦争に巻き込まれた民間人の代表ら9人を皇居・御所に招き、戦争体験などの話を聞かれた。

 両陛下と懇談したのは、サイパンで父が戦死した日本遺族会理事の勝間周作さん(67)や、マリアナ戦友会代表の大池清一さん(87)、旧南洋群島からの引き揚げ者のうち沖縄県出身者で作る南洋群島帰還者会会長の宜野座朝憲さん(74)ら。

 両陛下との懇談後、戦友会と南洋群島帰還者会の5人が厚生労働省で記者会見し、宜野座さんらの戦争体験に両陛下はうなずきながら耳を傾けられたことを明らかにした。天皇陛下は「ご苦労さまでした」と声をかけられたという。

 9人は宮内庁の求めで、同島北部にある日本政府建立の「中部太平洋戦没者の碑」や、民間人が海に身投げした断がい「バンザイクリフ」を慰霊される両陛下に同行する。現地は炎暑やスコールが予想され、屋外での両陛下との懇談は高齢者に負担が大きいとの配慮から、事前に御所での面会が設定された。

2005年6月21日13時24分 読売新聞
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-21 13:24 | 國防 軍事
失われた「日本」求めて
【幸せってなに?】ブータン紀行(1) 失われた「日本」求めて

「GNP」より「GNH」…物ごいのいない最貧国
息づく「輪廻転生」の思想

 明治、大正時代に来日した西洋人から見た日本は、こんなふうだったのかとも思う。ヒマラヤ南麓の標高千-三千メートルの山あいに位置するブータン王国。三十年ほど前まで「鎖国」に近い政策だった。現在も観光客の入国は制限されており、他国の文化的影響をほとんど受けずに存在してきた世界でも異質の国である。

 道行く人の顔立ちは驚くほど日本人によく似ている。伝統文化を守るため国民に着用が義務付けられた「ゴ」「キラ」と呼ばれる民族衣装は、日本の丹前や着物のよう。同様に規制をかけた家屋の建築様式も日本の古い農家を思い起こさせる。敬虔(けいけん)なチベット仏教徒でもある彼らは、むやみな殺生をことのほか嫌い、わが国の原風景のような農村社会で自給自足に近い生活を送っている。

 「GNP(国民総生産)」ではなく「GNH」。この国が世界に向けて発信している新しい概念だ。「H」は「Happiness(幸福)」。つまり「国民総幸福量」。そこには「先進国のような物質的な幸せではなく、精神的な幸せを目指したい」というささやかな願いが込められている。

 わずか一分半の遅れを取り戻すために百人以上が死亡する列車事故が起きた日本。働いても働いても、家族と食卓を囲む余裕すらなく、「幸せ」などという言葉を堂々と口にする人はほとんどいない。快適さを追求した電化製品に囲まれ、子供までもが海外のブランド品を身につける一方で、年間約三万人が自殺に追い込まれている。

 人々の顔やしぐさは似ていても、両国はまるで対極にある。

 ブータンの一人当たりの国民所得は約六百ドルで日本の五十分の一以下。電気の普及率は三割、水道ですら七割に満たない。国家予算は、水力発電による売電で外貨を稼ぐほかは、海外からの援助資金に頼る。そうした世界でも最貧国の一つでありながら、街中でホームレスや、子供たちの物ごいを見かけることはない。強盗やひったくりなどの犯罪もない。

 かつて日本の田舎がそうであったように、現地の人は「食べられなくても家族や親戚(しんせき)が助けてくれる」。核家族は少なく、いまだ家父長を中心とした大家族制が残っているのだ。

 ただ、彼らの意識も一九九九年にテレビ放送が解禁され、インターネットも導入されるにつれ、次第に変わりつつある。地方では過疎化が進む一方、人口が急増している首都ティンプーではマンションの建設ラッシュも始まっている。

 「文明開化」と「近代化」「情報化」「IT化」が一度に訪れたような状況が生まれ、物やお金に対する執着心も芽生え始めた。まるでタイムマシンに乗って日本の「いつかきた道」をもう一度眺めているような気にさえなる。

 「GNH」とはどのような概念か。そして、人間にとって「幸せ」とは何だろうか。

 イヌ、イヌ、イヌ…。犬だらけである。ブータンの首都ティンプーでは犯罪に遭う心配はないが、「犬には気をつけろ」といわれる。衛生状態は決していいとはいえず、噛まれたら狂犬病にかかる危険性すらあるからだ。

 なぜ、犬が多いのか。それは、この国の人々の考え方をよく表した現象の一つでもある。

 「あなたと、ここで出会ったのも、前世で知り合いだったからだ」。旅の初め、空港で自己紹介した現地ガイドのツゥリン・ノルヴさん(29)からは、そんな言葉が自然に出てきた。

 人間は肉体的な死で終わりではなく、来世で別の存在に生まれ変わるという「輪廻(りんね)転生」の仏教的思想。ブータン人は今も、そうした世界観の中に生きている。

 「犬は次に人間になる可能性が高い」とされており、生まれたら生まれただけ増えてしまう。野犬化しても市民は平気でエサを与える。

 夜更けのホテルの一室で、幾重にも響く遠吠えを聞きながら、ある本の一節を思いだした。養老孟司氏のベストセラー「死の壁」(新潮新書)。同氏がブータンを旅したときのことだ。

 ≪その食堂で、地元の人が飲んでいるビールに蝿が飛び込んだ。が、彼は平気な顔でその蝿をそっとつまんで逃してあげて、またビールを飲みつづけた。その様子を私が見ていると、(彼は)「お前の爺さんだったかもしれないからな」…≫

 日本でいう「縁」のようなものだろうか。長い長い輪廻のサイクルの中で、たまたま交わった「この世」での出会い。彼らはそれを決して偶然とは考えない。そしてすべての生き物に対しても、そうした意味を見いだしている。だからこそ、食べられるものは素直に食べるし、そうでないものは蝿一匹、殺さないのである。

 わが国から見れば荒唐無稽(むけい)な話かもしれない。ただ、むやみな殺生を戒める感覚は、かつての日本人なら当たり前に持っていたのではないか。部屋に飛び込んだ蝿や虫をムキになって追いかけ回すようになったのは、日本の長い歴史からみればごくごく最近のことではないか。

 ブータンも変わりつつある。街中に自動車が増え、片足を引きずった犬が見られるようになった。ホテルやレストランでは衛生上、蝿は邪魔者になりつつあり、従業員が自責の念から目をふさいだまま殺虫剤をまいているという。

 そんなこの国の社会に最も大きな影響を与えたのは六年前のテレビの導入だった。

文・写真 皆川豪志


ブータン王国

 面積は約4万6500平方キロメートルで九州とほぼ同じ。人口60-70万人、首都ティンプーは5-6万人(いずれも推定)。17世紀にチベットから入った高僧が国家として統一し、1907年に現王朝が支配体制を確立した。

 59年の中国のチベット併合に危機感を抱き、周辺国の政治的、文化的侵入を防ぐため、他国との付き合いは最小限にとどめている。74年から一般観光客に「開国」した。大阪とのつながりは深く、58年に大阪府立大の故・中尾佐助名誉教授による日本初の学術調査隊が入国、64年からは同大学出身の故・西岡京治氏が20年以上にわたって現地で農業指導を行った。

 大使館はないが、両国の関係は良好で、現在も青年海外協力隊(JOCV)の関係者ら数十人が滞在している。主要言語はゾンカ(ブータン語)と英語。
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-20 15:00 | 歴史 傳統 文化
調査捕鯨八百五十頭に倍増 IWC総会開幕 日本、計画を提出
調査捕鯨850頭に倍増 IWC総会開幕 日本、計画を提出

 国際捕鯨委員会(IWC)の年次総会が二十日、五日間の日程で韓国で始まった。日本政府は今年末から新たに南極海で行う調査捕鯨計画を提出した。平成十七-二十二年までの間、繁殖力の強い小型のミンククジラ(体長十メートル以下)の捕獲頭数は、現在の約四百頭前後から二倍以上の八百五十頭前後に拡大、最多で九百三十五頭となる見通し。また、対象を新たにナガスクジラ(体長約二十メートル)とザトウクジラ(体長約十五メートル)の大型鯨に広げ、二種ともに年間捕獲頭数を五十頭までとしている。

 ただ今後二年間、日本の調査捕鯨拡大に反発している豪州など反捕鯨国に配慮し、ホエールウオッチングの対象として抵抗感が強いザトウクジラは捕獲せず、ナガスクジラも十頭にとどめ、六年後に再び見直す。

 北西太平洋で実施中の調査捕鯨と合わせると年間の調査捕鯨頭数は計約千三百頭となり、日本に次ぐノルウェーの約八百頭を大きく引き離す。

 これまで開かれた科学委員会では反捕鯨国が日本の調査捕鯨拡大に異論を唱えたが、議論は冷静に推移。調査捕鯨は加盟国の正当な権利として保障され、決議に強制力はなく、日本政府は頭数拡大を貫く方針。

 IWC加盟の六十三カ国の間では、科学的なデータを提示した日本の商業捕鯨再開に支持が広がっている。反捕鯨色が強かったIWCは転機を迎えつつある。だが、商業捕鯨再開には強制力が必要な四分の三の票数が必要な上、容認派は発展途上国が多い。政府の票読みでは容認派は二票ほど劣勢という。最終的には反捕鯨側に立つ大国の圧力に屈する国が出る傾向にある。
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-20 15:00 | 産業 經濟
吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き

救助艇指揮官「事実無根」

 戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。

 この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。

 これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。

 その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった-と指摘した。

 松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。

 松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。

 しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。

 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。

 松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。


◇ 『戦艦大和ノ最期』

 戦記文学の傑作として繰り返し紹介され、ほぼ漢字と片仮名だけの文語体にもかかわらず、現在出版されている講談社文芸文庫版は10年余で24刷を重ねる。英訳のほか市川崑氏がドラマ化、朗読劇にもなった。

 昭和21年に雑誌掲載予定だった原文は、連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部の検閲で「軍国主義的」と発禁処分を受けたため、吉田満氏が改稿して27年に出版したところ「戦争肯定の文学」と批判された。

 現在流布しているのはこの改稿版を下敷きにしたもの。原文は米メリーランド大プランゲ文庫で故江藤淳氏が発掘し、56年刊の自著『落葉の掃き寄せ』(文芸春秋)などに収めている。
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-20 05:00 | 國防 軍事
硫黄島で戦没者追悼式、首相ら百人が出席
硫黄島で戦没者追悼式、首相ら100人が出席

摺鉢山で「第1および第2御盾(みたて)特攻隊碑」に手を合わせる小泉首相=代表撮影 小泉首相は19日、太平洋戦争で日米両軍が激しく戦った硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、政府主催の「戦没者追悼式」に出席した。

 現職首相の硫黄島訪問は初めて。首相は「終戦から60年が過ぎ去った。悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、各国との友好関係を発展させ、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献する」とあいさつし、「不戦の誓い」を新たにした。

 硫黄島では日本側2万1900人、米側6821人が戦死した。

 追悼式は、硫黄島の「戦没者の碑」の改修が3月に完了したことを受けたもの。尾辻厚生労働相、大野防衛長官ら政府や在日米軍の関係者、遺族ら約100人が出席した。

 強い日差しの中、黙とうをささげ、戦没者の碑に花を手向けて冥福(めいふく)を祈った。

 遺族代表の広島県東広島市の松村信子さん(86)はあいさつで、「家族も立派に成長し、日々充実した暮らしをしていますので、どうぞご安心下さい」と戦没者に語りかけた。

 首相は式典を終え、米兵戦死者のための「米軍将兵の碑」などを訪れた後、「すさまじい、苛烈(かれつ)な戦闘地だった。戦った兵士を思うと、『二度と戦争をしてはならない』と強く思った。日本軍も米軍も、祖国、家族のため、心ならずも戦わざるを得なかったのだろう」と記者団に語った。

2005年6月19日20時21分 読売新聞
[PR]
by unkotamezou | 2005-06-19 20:21 | 國防 軍事