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女性天皇に四氏が賛否 皇室典範に関する有識者会議
女性天皇に4氏が賛否…皇室典範に関する有識者会議

 「皇室典範に関する有識者会議」(小泉首相の私的諮問機関、吉川弘之座長)は31日、第6回会議を都内で開き、国学院大の大原康男教授、静岡福祉大の高橋紘教授、高崎経済大の八木秀次・助教授、流通経済大の横田耕一教授の4人から意見を聞いた。女性天皇については賛否両論が出た。

 大原氏は「男系主義の歴史的重みは大きい」と指摘し、八木氏も「過去にも皇統断絶の危機はあったが、皇統が女系に移ることは厳しく排除した」と語るなど、女性天皇について慎重論を展開した。両氏は、現在は認められていない皇族の養子制度の導入や、旧皇族の皇籍復帰などにより、男系による皇位継承を維持すべきだと主張した。

 これに対し、高橋氏は「象徴天皇にふさわしい皇位継承を考えるべきだ。天皇や皇太子に子供が生まれた瞬間から、男女に関係なく、『将来の天皇はこの方だ』と思える親近感が大事だ」と述べ、女性天皇を認めたうえで、男女を問わず出生順で皇位継承順位を決める「長子優先案」を唱えた。

 横田氏は「いずれの方策をとっても、天皇制の存続は難しい問題をはらんでいる」と語った。同会議は次回の8日も、別の識者4人に意見を聞く予定だ。

2005年5月31日22時23分 読売新聞
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by unkotamezou | 2005-05-31 22:23 | 皇室
二子山親方死去「師弟の絆」固く 息子に託した大輪の夢
二子山親方死去 「師弟の絆」固く 息子に託した大輪の夢

 二子山親方(元大関貴ノ花)が入院先の病院から国技館に駆けつけたのは一月三十日。元大関貴ノ浪関の断髪式に、十分遅れて到着した。正面西の花道にその姿をみつけ、貴ノ浪関はこらえきれずに涙を流した。呼び出しの肩を借りながら土俵に上がった親方は、弟子の大いちょうに震える右手ではさみを入れた。これが公の席での最後の姿だった。(小田島光)

 「来てもらいたい人が来てくれた。ありがたいことです」。病をおして新たな門出を祝ってくれた師匠に、弟子は素直に感謝した。

 貴ノ浪の断髪式を終えたあと、二子山親方は病状報告のため、理事長室を訪れた。このときも、弟子たちが付き添っていた。

 力士の育成には定評があった。誕生させた関取(十両以上)は七人。元安芸乃島関(現千田川親方)が第一号だった。弟子からの信頼も厚かった。

 しかし、何にも増して、厳しいしきたりが残る相撲社会の中で、苦節ありながらもはぐくんだ“親子の絆(きずな)”が、印象に残る。

 二男の貴乃花親方が父のがんを公表した。「私が手を握っていますと逆に握り返し、体を起こすかのようなしぐさを繰り返し行います。改めて父子のつながりを深く抱いている次第です」。心にしみた。

 二子山親方は現役時代、竹刀を持つ兄・元横綱初代若乃花の容赦ないけいこに耐えた。血統のよさゆえに、他の力士のねたみを買い、土俵の砂を口にほうり込まれた。

 辛苦の末につかんだ三役の座。昭和四十六年夏場所五日目、熱戦の末に大鵬関を寄り倒し、大横綱を引退に追い込んだ。勝っても負けてもファンを沸かせる土俵の華となり相撲人気を盛り上げた。

 だが大輪を咲かせることはできなかった。大関在位は史上最多の五十場所。ついに横綱になれなかった苦闘の跡である。夢は息子に託した。「もう親と子ではない。師弟の関係だ」と言って土俵に送り出した長男・勝さん、二男・光司さんに一日百番の猛げいこを課した。

 貴乃花関が関脇に昇進したころ、記者は会社の要請で若貴兄弟本出版の許可を得ようと、二子山親方を訪ねた。親方は行き付けの飲み屋に記者を誘い、こう言った。

 「大関になるまで、待ってください。一人前になるまで」。角界で一人前とは関取になることをいう。ところが親方は自分と同じ番付に昇進するまでは、息子を一人前とは認めなかった。息子たちは横綱になっても「父を超えることは一生ない」と言った。

 憲子さんとの離婚、息子たちのけんか、二子山部屋の内紛…。ごたごた続きは本意でなかったろう。そして、長い闘病生活。耐え続けた人生だった。
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by unkotamezou | 2005-05-31 05:00 | 歴史 傳統 文化
貴乃花部屋に無言の帰宅 若貴沈痛、言葉なく
貴乃花部屋に無言の帰宅 若貴沈痛、言葉なく

 二子山親方死去の知らせで、東京都内の病院には三十日夕から、音羽山親方(元大関貴ノ浪)、大嶽親方(元関脇貴闘力)らかつての弟子などが駆けつけた。実兄で元横綱初代若乃花の花田勝治さん(77)は、口を真一文字に結んだ沈痛な表情で足早に病院へ。

 昼ごろに見舞った花籠親方(元関脇太寿山)は「話ができる状態ではなかったが、すごくいい顔をしていた。人の声を聞くと落ち着くというので、病室で親方の現役時代の話をしてきたばかりだ」と信じられない様子。

 病院内では、この日夜、今後について二男の貴乃花親方ら親族が深刻な様子で話し合いを続けたという。

 だが、記者団の前に姿を見せた放駒親方(元大関魁傑)は「まだ何も決まっていない」と話すにとどめた。

 遺体は同日午後十一時半過ぎ、医師らに見送られて霊柩(れいきゆう)車で病院を出発し、東京都中野区の貴乃花部屋へ。助手席には長男の花田勝さん、後部座席に貴乃花親方が乗った。

 車が病院を出る際、正門に集まった報道陣に「車が出るのでスペースをあけてほしい」と病院側が要請したが、車は反対側の出入り口から出るなど混乱も。若貴兄弟は終始無言で、結局この夜、部屋をついだ貴乃花親方らの記者会見も行われなかった。
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by unkotamezou | 2005-05-31 05:00 | 歴史 傳統 文化
二子山親方死去 土俵際の魔術師 大関在位最多五十場所
二子山親方死去 土俵際の魔術師 大関在位最多50場所
粘り身上「角界のプリンス」

 どんなに大きな相手でも立ち合いに決して逃げたりせず、100キロそこそこの体で常に真正面からぶつかっていった元大関貴ノ花の二子山親方が、今回も発症率1、2%といわれる珍しい病気に見舞われながら、逃げず、全力で闘い、今度ばかりは敗れ去った。2月19日に55歳になった。まだ若い。さぞ無念だったろうが、ある意味ではやっと安息の時を迎えたといえそうだ。

 大相撲の世界に飛び込んだのは15歳2カ月の時。中学時代に水泳の選手だったが、「水泳ではメシが食えない」の有名なコメントを残した。だが、これはウソ。母・きゑさんに「力士になれ」と勧められたからだ。

 実兄は元横綱初代若乃花。相当なプレッシャーがあったが、努力ではねのけ、18歳ちょうどで十両、18歳8カ月で入幕と、当時の最年少記録を次々と樹立した。のち北の湖、そして実子の貴乃花にいずれも破られたのも何かの因縁か。

 身長は183センチあったが、体重は最高時でも121キロしかなかった。素質も兄には劣った。それでいて大関に昇進、現在でもまだ破られていない大関在位50場所の記録を残したのは、まれにみる粘り強さだ。

 「体がないから最後まであきらめない相撲を取るしかないんだ」の信念通り、ハラハラ、ドキドキのサーカス相撲。足を取られながらも粘りに粘って逆転勝ちした大関清国戦(昭和46年秋場所6日目)、体が完全に下になりながらのしかかる体勢の横綱北の富士が「かばい手」として右手を先についた一番(同47年初場所8日目、貴ノ花負け)などは貴ノ花の真骨頂の相撲である。

 205キロの高見山と対戦するときは、半分の体重の貴ノ花がいまにもポキンと折れてしまいそうだったが、これも粘って逆転の投げ技と、お客さんが喜ぶ取り口をつねに見せてくれた。アマ横綱、学生横綱の華々しい看板を引っさげてプロ入りした輪島が当時大相撲のメッカである蔵前をもじって「蔵前の星」と呼ばれたのに対し、貴ノ花は「角界のプリンス」。

 仲のいい2人が同時に大関昇進、相撲人気をあおったのもわすれられなければ、昭和50年春場所、北の湖との優勝決定戦に勝って初優勝したとき、当時、審判部副部長だった兄の二子山親方から優勝旗を授与され「血管の血が逆流するようだった」といわしめたことも、歴史に残る出来事だった。

 引退後は藤島部屋を創設。自身が果たせなかった横綱への夢を、実子の三代目若乃花、貴乃花兄弟を育てることによって実現。大関貴ノ浪以下安芸乃島、貴闘力らの人気力士を輩出した。

 空前のブームを生んだ若・貴時代、その生みの原動力となり、現役時代からずっと通して相撲界に貢献してきた功績は計り知れない。

 物心ついたころから母親とともに兄の世話で上京、東京育ちだが、本籍の青森人らしく口の重さを持っており、話し上手ではないが、ボソボソとした語り口ながら誠実さを持ち合わせている。

 兄・二子山親方の定年引退に伴う年寄名跡譲渡問題や、自らの離婚問題などで世間を騒がせたが、それも人気者ゆえの注目度の高さから。

 今はすべてから解放され、ご苦労さん、ゆっくりと休んでくださいといいたい。(早乙女貞夫)

≪北の湖理事長、沈痛な面持ち≫

 二子山親方死去の報を受けた日本相撲協会の北の湖理事長(元横綱北の湖)は30日、東京都江東区の北の湖部屋で「5時50分ごろ、貴乃花親方から電話があった。貴ノ浪の引退相撲の時に会ったのが最後。その時はよくなると信じていたが、つらそうな顔をしていた」と沈痛な面持ちで語った。

 現役時代は軽量の貴ノ花の前に、文字通り大きな壁として立ちはだかったが、昭和50年春場所の優勝決定戦では敗れた。「一番の思い出。天井が見えなくなるくらい座布団が舞ったのを覚えている」。親方としての手腕も「横綱2人、大関1人を哲学を持って育てられた」と高く評価した。

 相撲協会葬、事業部長の後任については「近いうちに理事会を開かなくてはいけない」と話した。

◆ 九重親方(元横綱千代の富士)「大変残念。昔からあこがれていた方だった。自分と戦った後に二子山親方が引退を決められた一番はとても印象に残っているし、勝ったことで後の自分の自信にもなった。力士人生のなかでも、一番影響を受けた方だった」

◆ 王貞治・ソフトバンク監督「現役時代は体も小さく、初代若乃花の弟として重圧もあったでしょうが、当時の角界を背負って立つ素晴らしい力士だった。引退後、子供たちを最高位にまで育て上げ、たくさんの力士を輩出したのは卓越した指導力のたまものだったと思う」

≪AP通信も打電≫

 二子山親方の死去は30日の東京発のAP通信も伝えた。親方を「相撲のプリンス」として知られたと表現。相撲界の名門出身の元大関が亡くなったとし、「非常に有名な兄弟」の若乃花、貴乃花の父親であることなどを紹介している。

【二子山親方が育てた主な力士】

最高位 力士名   主な成績

横 綱 貴 乃 花 優勝22回
横 綱 若 乃 花 優勝5回

大 関 貴 ノ 浪 優勝2回
関 脇 貴 闘 力 優勝1回、三賞14回
関 脇 安芸乃島  三賞19回、金星16個

前頭1 豊 ノ 海
十両6 五 剣 山

(注)安芸乃島の金星16個は史上最多

【故二子山親方の年表】

昭40・夏  初土俵
 43・春  新十両
    九  新入幕
 45・秋  新三役
 47・秋後 大関昇進

 50・春  幕内初優勝(13勝2敗)
    秋  2度目の優勝(12勝3敗)
 56・初  引退
 57・1月 藤島部屋創設
 63・春  長男・勝、二男・光司が入門

平 5・2月  二子山部屋に変更
  6・九後  光司が横綱昇進
 10・夏後 勝が横綱昇進
 16・2月 協会の事業部長就任

■二子山満 昭和40年夏場所、初土俵。左四つ寄り、上手投げ、つりを得意とし、幕内優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回。大関在位50場所は史上最多。幕内在位70場所の成績は578勝406敗58休。
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by unkotamezou | 2005-05-31 05:00 | 歴史 傳統 文化
卓越した指導力、協会に痛手
卓越した指導力、協会に痛手

 二子山親方の闘病生活は長かった。

 平成15年10月、かねて患っていた両足の血行障害が悪化し入院。11月の九州場所は審判部長としての仕事を休み、治療に専念した。公務復帰となったのが3カ月後。そのとき、親方はこう打ち明けている。「足はだいぶ良くなったが、薬の副作用で口内炎ができた。しゃべるのが少し不自由している」。このとき、死因となった口腔底がんの前兆があったともいえる。

 その後、二子山部屋の名称を「貴乃花部屋」に変更、部屋経営は二男に任せ、親方自身は協会の仕事に専念した。

 ところが昨年7月には口内炎の悪化などの理由で再び入院したのをきっかけに、入退院を繰り返していた。

 公の最後の場となったのは、今年1月30日に行われた弟子の貴ノ浪の断髪式。以降、がんとの長い闘いを続けていた。

 二子山親方は力士育成の面でも協会に貢献した。相撲人気を回復させた若貴時代を生み出したのは、故人の手腕によるといっても過言ではない。それゆえ、NO・2の事業部長という要職にあった親方を失った痛手が協会に残る。しかし、協会としても長期闘病の間に態勢を整えていたことだろう。

 相撲人気が低迷している今、力士への指導力不足も指摘されている。故人のようながんこさと熱心さ、それに病床でがんと一生懸命闘ったような忍耐強さが親方衆にも求められる。(松本恵司)
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by unkotamezou | 2005-05-31 05:00 | 歴史 傳統 文化
戦没者拝礼式、千鳥ヶ淵墓苑で行われる
戦没者拝礼式、千鳥ヶ淵墓苑で行われる

千鳥ヶ淵戦没者墓苑での献花を終えた小泉首相 第2次世界大戦や戦後のシベリア抑留で死亡した身元不明の戦没者を慰霊する「拝礼式」が30日、東京・千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた。

 戦後60年の今年は、小泉首相、高円宮妃久子さまをはじめ遺族代表ら約500人が参列。尾辻厚生労働相が「先の大戦から学びとった多くの教訓を次の世代に継承し、恒久の平和を確立すべく力を尽くして参ります」と式辞を述べた。

 今年、新たに納骨されたのは、政府の遺骨収集団がこの1年間に収集した300柱で、これで同墓苑に納められた遺骨は35万926柱となった。

2005年5月30日14時53分 読売新聞
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by unkotamezou | 2005-05-30 14:53 | 國防 軍事
「悲運の中隊」旧日本兵二人の足跡
「悲運の中隊」旧日本兵2人の足跡 自活自戦…消息絶つ

 フィリピン・ミンダナオ島で生存しているとみられる旧日本兵の山川吉雄中尉(87)、中内続喜(つづき)上等兵(85)が地獄絵図のような戦闘状況から、どのようにして消息を絶ったのか。師団関係者の記録や証言から二人の軌跡を追った。

 二人が所属した旧陸軍第三十師団捜索第三十連隊の生存者でつくる「捜30ミンダナオ会」が編纂(へんさん)した「ミンダナオ島」には、山川さんが不明になるまでの足取りが詳細に記されている。

 それによると、山川さんが中隊長を務めた捜索第三十連隊第三中隊は昭和二十年四月二十二日、島北部のダルリグで米軍の爆撃で、大きな被害を受けた。その後、マライバライ、カバングラサンと移動。行軍は苦難続きだった。「北カパロン転進隊」と呼ばれる部隊五十数人のうち同年十二月、米比軍に投降したときには七人になっていた。師団関係者は「悲運の中隊」と表現する。同書では、生存者の証言を基に次のように描いた。

≪煙のある処に食物があると、煙を目標に道もない稜線を3日程かゝって降りて行った。そのキツイ事、云い表し様がない。(中略)全員が脚気に罹り、足に掛るツタカズラさえも踏み越える事が出来なかった≫

 行軍の途中、体力が衰えた山川さんは不調を訴え、ほかの隊員は山川さんともう一人を残し、食べ物を探しに出掛けた。食べ物を見つけ、山川さんら二人を待ったが、そのまま二人は姿を見せなかった。

 同連隊の男性(87)によると、部下が山川さんを捜しに戻ると、河原の石の上に山川さんの軍服の上着が広げてあったという。

≪前後の状況から推測して、中隊長の最後は八月二十日と思われる≫

 同書ではそう記されている。

 一方、中内さんが不明になった詳細は分かっていない。捜索第三十連隊で同年兵だった森義友さん(85)によると、中内さんは同年四月ごろから、島北部のブゴで海水から塩を製造する製塩班に所属していたことが分かっている。

 同年五月一日、仲間とともに塩を師団司令部があったマライバライへ移送。そのまま中内さんは消息を絶ったという。「司令部は偉い人ばかりだったから、下の者が到着したので、そのまま中内さんが警備兵になったのではないか」。森さんはそう推測している。

 司令部があったマライバライはその後米軍に占領され、師団は食糧を自ら補給しながら戦いを続ける「自活自戦」を強いられた。そのさなか、中内さんは行方不明になったとみられる。

 別々に山中で行方不明になったとみられる山川さんと中内さんがどこで知り合い、どうして六十年もの間、行動をともにしていたのか。多くの師団関係者が疑問だ、としている。

産経新聞 2005-05-29 12:25
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by unkotamezou | 2005-05-29 12:25 | 國防 軍事
旧日本兵 山川、中内さん 帰国望む漢字署名
旧日本兵 山川、中内さん 帰国望む漢字署名 桜井さんは残留希望か

 【ゼネラルサントス(フィリピン・ミンダナオ島)=鈴木裕一、大地山隆】フィリピン・ミンダナオ島で終戦を迎え、生存しているとされる旧日本兵二人が、メモに漢字で署名をしたうえで、日本への帰国を切実に訴えていたことが二十八日、分かった。一方、別の生存情報がある軍医だった男性は現地に残留を希望しているとみられ、接触できるか不明。マニラの日本大使館員らは仲介者の男性を通して二人との面会に向けた調整を続けており、この男性は「調整は終わった。大使館員との面会は近く実現する」と話した。

 メモを書いていたのは、旧陸軍第三十師団捜索第三十連隊第三中隊に所属していた山川吉雄中尉(87)=大阪市西区出身=と中内続喜(つづき)上等兵(85)=高知県明治村(現越知町)出身。

 在比関係者によると、メモは二人と接触した人が身元を確認するため、約七センチ四方の紙とボールペンを手渡し、書かせた。

 二人はそれぞれ手書きで、「山川吉雄」「中内続喜」と漢字で記載。さらに日本政府などにあてたメッセージとして、「日本に帰国したいので、よろしくお願いします」という趣旨の言葉を添えた。しっかりとした文字で書かれ、生存情報の有力な根拠になった。

 二人は終戦後、反政府ゲリラ「モロ・イスラム解放戦線」などが支配する山岳地帯で、六十年間にわたって生活。最近、ゼネラルサントス市郊外のスルタン(イスラム教国の君主)の支配地域に移って保護されており、メモはその時期に書かれたとみられる。

 また、二人とは別に生存情報がある同師団第四野戦病院の軍医だった桜井令一中尉(93)=兵庫県志方村(現加古川市)出身=は現地に残留することを望んでいるという情報もある。桜井さんは同島中央部マライバライに駐屯中、戦闘の合間を縫って現地の住民を診察、信頼が厚かったという。

 同師団が「自活自戦」による分隊を命じた後、集合場所の同島ワロエに向かったが、米比軍の迎撃に遭い、マライバライに引き返し終戦を迎えた。その後も、現地で医療活動にあたり、反政府ゲリラの活動が活発な山岳地帯でも医師をしていた。現地住民に要請され、とどまった可能性もある。

 結婚後は同島東部にあるフィリピン第二の都市、ダバオ市内で生活していたが、妻子と死に別れたため再び山岳地帯に戻ったとみられている。

 一方、厚生労働省の職員が同日、成田空港から現地に向けて出発した。二人と面会し、氏名、年齢、生年月日や出身地、旧陸軍での経歴や階級、現地に残った経緯などについて聞き取り調査する。そのうえで同省が保管している旧日本軍の人事書類と照合し、身元確認を行う。
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by unkotamezou | 2005-05-29 05:00 | 國防 軍事
広島の男性、十数年前まで生存 比の旧日本兵
広島の男性、十数年前まで生存 比の旧日本兵
豹兵団 現地で結婚、孫も

 【ゼネラルサントス(フィリピン・ミンダナオ島)=鈴木裕一、大地山隆】フィリピン・ミンダナオ島で終戦を迎え、生存がほぼ確実視されている旧日本兵三人とは別に、「立上巌栄(いつえい)」と名乗る旧日本兵も終戦後、そのまま現地で暮らし、十数年前に九十歳代で死亡していたことが二十八日、分かった。

 立上さんは、広島県出身。生存がほぼ確実視されている旧日本兵、山川吉雄さん(87)=大阪市西区出身=、中内続喜(つづき)さん(85)=高知県明治村(現越知町)出身=と同じ陸軍第三十師団(豹兵団)所属だったとみられる。

 現地に残っている旧日本兵では、ほかに同師団所属の軍医だった桜井令一さん(93)=兵庫県志方村(現加古川市)出身=とみられる男性も生存していることが分かっている。

 立上さんは、終戦後もミンダナオ島の南にある小島・バルト島に残り、結婚して子供をもうけた。近くの集落には現在も子供や孫が生活しているという。

 日本国内では生死不明とされ、昭和四十二年二月に失踪(しっそう)宣告の裁判が確定。同年六月に戸籍が抹消された。

 関係者によると、終戦後も、フィリピン政府の統治が完全に行き届いていなかったミンダナオ島周辺に残り、結婚するなどして新たな生活基盤を築いていた旧日本兵は少なくなかったとみられる。

 一方、立上さんと同じバルト島で生き残り、今春に死亡したとされる「ワタナベ」さんは旧海軍に所属していたとみられることが新たに判明した。

 関係者によると、ワタナベさんは昨年末、現地で生存していることが確認され、日本帰国の意思を尋ねたところ、帰国を強く希望した。しかし、同関係者が今年四月、再び現地を訪れたところ、三月に死亡していたことが分かったという。

《厚労省職員 現地に出発》

 フィリピン・ミンダナオ島で旧日本兵とみられる男性二人が保護されたという情報を受け、厚生労働省社会・援護局業務課の職員が二十八日、成田空港から現地に向けて出発した。

 業務課によると、現地に派遣された職員は、すでに先着している在フィリピン日本大使館の職員と合流。外務省と連携しながら、旧日本兵とみられる男性二人と面会し、本人の氏名、年齢、生年月日や出身地、旧日本軍での経歴や階級、現地に残った経緯などについて聞き取り調査する。

 そのうえで同省が保管している旧日本軍の人事書類と照合し、身元確認を行う。また、面会後に日本にいる家族に接触し、本人の出征前の生活情報や出征時の状況などを聞き取る。本人の写真などを見せて身元確認を試みるという。厚労省は、「外務省や厚労省の職員がまだ直接本人と接触しておらず身元確認もできていない」(業務課)として氏名は公表していない。
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by unkotamezou | 2005-05-28 15:00 | 國防 軍事
戦友「奇跡の生還」心待ち
戦友「奇跡の生還」心待ち 温厚な中隊長/最古参の上等兵 旧日本兵生存

 温厚な中隊長。最古参の上等兵。フィリピン・ミンダナオ島で生存情報の確認作業が続けられている旧日本兵を直接知る戦友の遠い記憶からは、二人の人柄が浮かんでくる。「ご苦労さん」「一日も早く帰国を」。老いた戦友たちは、二人に直接言葉をかける日を心待ちにしている。

 「軍人特有のしかつめらしいところのない、温厚な方でした」

 旧陸軍第三十師団の第三十連隊の元中隊長で元中尉、山川吉雄さん(87)=大阪市西区出身=の部下だった岡山県真庭市の元製パン業、花森賢一さん(86)は話す。

 山川さんは朝鮮・京城(現韓国・ソウル)郊外の第二十師団にいた昭和十八年、朝鮮・平壌で三十師団が編成され、転属した。一期後輩だった大分県別府市の元会社員、杉田茂さん(87)は「人づき合いがよく、まじめな人でした」と振り返る。

 同連隊の二つの自動車部隊が各約百五十人の兵員を擁したのに対し、山川さんの軽戦車部隊は四十八人だったという。平壌からミンダナオ島へ移動中、台湾南方で輸送船が沈められ、現地では三台ほどの戦車と、米軍から押収した二台でしのいだ。部下たちもほとんどが戦死した。

 連隊の別の中隊の将校だった男性(87)は平壌時代、将校集会所での会議を兼ねた昼食で山川さんと顔を合わせた。「部下は九州と広島出身者ばかりで言葉も雰囲気も違ったから、大阪出身でおとなしい山川さんが部下を束ねるのは、しんどかったろう」と話す。

 高知県明治村(現越知町)出身の元上等兵、中内続喜さん(85)の部下だった兵庫県三木市の元刃物製造業、光川得三さん(81)は「厳しいところもあるし、優しいところもある先輩やった」と話す。「わしは初年兵で気合を入れられた方だったから、よう覚えとる」

 名前は「つづき」と読むが、最古参兵だった中内さんのことを仲間たちは「ゾッキ、ゾッキ」と愛称で呼んだ。

 戦後、同じ高知出身だった上官が復員して中内さん宅を訪ねると、両親と妻はすでに転居していたという。

 花森さんは「今回はびっくりしました。奇跡ですな。原始的な生活でかなり難儀されたと思う。お二人もお年ですから、国に早く帰ってこられる方策を考えてもらい、一日でも早く帰って内地の生活になじんでもらいたい」と話していた。

《地元紙も大きく報道》

 【ゼネラルサントス(フィリピン・ミンダナオ島)=大地山隆】旧日本兵三人の生存がほぼ確実視されているフィリピンでは、地元紙も二十八日付でこのニュースを大きく取り上げた。

 英字紙「フィリピン・デイリー・インクアイラー」は、一面で「日本兵生存者とみられる二人が目撃された」と報じ、馬に乗る中内続喜さんと、中内さんの墓を訪ねた義妹の写真を掲載。「二人から事情を聴くため、日本大使館員がミンダナオ島のゼネラルサントスに入った」と伝えた。
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by unkotamezou | 2005-05-28 15:00 | 國防 軍事