ブログトップ
カテゴリ:歴史 傳統 文化( 166 )
蘇る玉虫厨子(たまむしのずし)

 奈良の法隆寺に残る多くの秘宝のなかでも、国宝の玉虫厨子(たまむしのずし)は、飛鳥時代最高の工芸作品として名高い。ただ、名前の由来となった大量のタマムシの羽は、本体上部の透かし彫りの金具の下から、ほとんどが失われている。

▼ 1300年前のまばゆい輝きを取り戻すことができたら、とは誰しも思うことだ。以前に小欄で紹介したことがある、岐阜県高山市の実業家、中田金太さんは、1億円以上の私財を投じ、それを実行に移した。

▼ 宮大工、彫師、蒔絵師(まきえし)、塗師、錺(かざり)金具師ら、全国から集められたえりすぐりの職人たちが、3年の歳月をかけて完成させた2点は、今、法隆寺の秘宝展で展示されている。1点は、国宝を忠実に再現した復刻版。

▼ もう1点は、4つの面に描かれた仏画などにも、計約3万6000枚のタマムシの羽を張り付けた「平成版」だ。平成版は、洞爺湖サミットの会場に持ち込まれ、各国の指導者に披露する計画もあるという。空前のプロジェクトを追ったドキュメンタリー映画『蘇る玉虫厨子』もまもなく公開される。

▼ 高山市出身のプロデューサー、益田祐美子さんが、「ものづくりの過程も残さなければ」と、資金を自分で集めて製作した。映画のなかで「新しい技法を編み出した」と、笑みを浮かべる職人の姿があった。復刻作業で、技術の高さが認められて仕事が増え、経済的な苦境から逃れた職人もいたという。

▼ 「地域の振興、ものづくりの復権をいうのなら、まず第2、第3の中田金太が出てこなければ」と益田さんはいう。ただ残念なのは、その中田さんが、完成前の昨年6月に世を去ったことだ。「ひとめ見せたかった」。映画で三國連太郎さんが語る言葉は、関係者すべての気持ちでもある。

20/06/02 05:08

【産経抄】6月2日
[PR]
by unkotamezou | 2008-06-02 05:08 | 歴史 傳統 文化
万葉歌木簡の発見で「こりゃ、えらいこっちゃ」

 「『阿佐可(あさか)』はすぐに読めた。瞬間的に万葉歌だと直感、ドキッとした。あの古今集のセット関係や、こりゃ、えらいこっちゃと…」

 大阪市立大大学院の栄原(さかえはら)永遠男(とわお)教授(日本古代史)は、その瞬間の興奮を今も忘れない。

 木簡学会会長である栄原教授は昨年12月1日、それまで習書や落書きと考えられていた木簡のなかには歌会で使われたものもあるとして、「歌木簡」という新しいジャンルを提唱した。紫香楽宮跡調査委員でもある栄原教授が、同遺跡から出土した木簡の再チェックを開始したのは、その直後だった。

 運命の瞬間が訪れたのは、1週間あまり後の12月10日。「難波津の歌」が書かれた木簡の形状を詳しく調べようと、裏返したときだった。念のため、赤外線でも見たが、間違いない。

 しかし読めたのは一部で、まだ万葉歌と断定できなかった。そこで奈良文化財研究所が持つ、より性能が高い機械で解読、その結果、残りの4文字が判明した。そして、国文学者を交えた検討会議のなかで、「安積香山の歌」で間違いないとする見解に至った。

 栄原教授の定義に該当する「歌木簡」はこれまでに14点が出土。うち「難波津の歌」は9点ある。「歌の人気もあるが、調査者が難波津の歌の発見例を知っていたからこそ、これだけの数が見つかった。同じように今回の発見が、万葉歌木簡の次なる発見につながってほしい」

20/05/23 07:02

万葉歌木簡の発見で「こりゃ、えらいこっちゃ」
[PR]
by unkotamezou | 2008-05-23 07:02 | 歴史 傳統 文化
万葉集の木簡が初出土 紫香楽宮、難波津の歌も

 奈良時代に聖武天皇が造営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745)跡から平成9年に出土した木簡の両面に、それぞれ和歌が墨書され、うち1首が万葉歌だったことが分かり、同市教委が22日、発表した。4500首以上の歌を収録している『万葉集』だが、木簡に記された歌が見つかったのは初めて。木簡は『万葉集』の成立以前に書かれた生々しいドキュメント史料で、歌集成立の過程などを探る画期的な発見として注目を集めそうだ。

 木簡に記されていたのは、『万葉集』巻16に収録されている「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」と、「難波津(なにはづ)の歌」として知られる「難波津に 咲くや木の花冬こもり 今を春べと咲くや木の花」の一部。いずれも漢字を仮名的に用いた万葉仮名で書かれている。

 2つの断片に分かれ、幅はいずれも2・2センチ、長さはそれぞれ14センチと7・9センチ。文字の大きさなどから、もともとは幅3センチ、長さ約60センチほどと推定できる。厚さは約1ミリ。「安積香山の歌」は7文字が、「難波津の歌」は13文字が残っていた。同市教委は、儀式や宴会で歌を読むときに使われたとみている。

 2首は10世紀初頭、紀貫之らが編纂した『古今和歌集』の「仮名序」で「歌の父母(ちちはは)」と紹介されているポピュラーな歌。『源氏物語』や『枕草子』などでも手習いの歌としてセットで登場する。今回の発見で、このセット関係が『古今和歌集』を150年さかのぼることになり、これまで謎だった2つの歌の結びつきについても議論が高まりそうだ。

 安積香山は福島県郡山市にある山で、万葉集の詞書(ことばがき)によると、この歌は東北に派遣された葛城王(かつらぎのおおきみ)(のちの橘諸兄(たちばなのもろえ))が国司の粗略な接待に気を悪くしたが、応対した采女(うねめ)がこの歌を詠み、機嫌を直したと伝えられている。

 「難波津の歌」は、仁徳天皇の治世の繁栄を願った歌とされる。万葉集には収められていないが、奈良文化財研究所によると、この歌が記された木簡は7世紀後半以降の30例あまり確認。古くから有名な歌だった。

 木簡が出土したのは、宮殿などの遺構が確認されている紫香楽宮中枢部の西側の脇を流れる基幹排水路跡。同じ個所から出土した年号のある木簡13点から、天平15(743)年秋から745年春にかけて棄てられたと推定できるという。

 現地説明会の代わりに、5月25日午後1時から、甲賀市信楽町長野の信楽中央公民館で、「万葉歌木簡記念講演会」が開かれる。

                         ◇

■ 万葉集 ■

 現存最古の歌集。全20巻からなり、仁徳天皇から759年までの和歌約4500首が収録。大伴家持や橘諸兄らが編集したとされる。雑歌(ぞうか)、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)に大別される。素朴で力強い歌風が特徴で、文学的評価は高い。「巻1」から「巻15」までが、745年以降の数年間に成立。今回の木簡と同じ歌が収録された「巻16」と家持の日記がその後に増補され、782~783年ごろに全20巻が成立したとする考えが有力。

■ 紫香楽宮 ■

 天平14(742)年、聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に造営した離宮。翌年ここで、大仏造立を発願した。745年に「新京」と呼ばれたが、同年に平城京に還都した。宮町地区で昭和58年から行われた発掘調査で、朝堂など中心施設が検出された。これまでに平城京に次ぐ約7000点以上の木簡が出土している。

20/05/22 17:29

万葉集の木簡が初出土 紫香楽宮、難波津の歌も
[PR]
by unkotamezou | 2008-05-22 17:29 | 歴史 傳統 文化
たった一人の五輪ボイコット

 平成8年アトランタから16年アテネまで、日本が3大会連続で金銀銅メダルを独占してきた五輪種目がある。陸上男子砲丸投げ。といっても選手の話ではない。メダルを獲得した選手の砲丸が、ことごとく日本の、それも小さな町工場で作られているのだ。北京でも当然、日本製「魔法の砲丸」のメダル独占は確実…のはずだった。

 埼玉県富士見市。有限会社辻谷工業は東京近郊の小さな商店街の一画にある。2階建ての1階が工場、上は自宅。旋盤のハンドルを握り、黙々と砲丸を削っていた辻谷政久さん(75)があっさりと言った。

「北京はやめました」

 平成16年8月、サッカーのアジアカップが中国・重慶で開かれた際、現地サポーターが見せた日本に対するむき出しの憎悪。それが辻谷さんには気がかりだった。悩みに悩んだ末、4大会連続メダル独占の偉業を断念し、砲丸の卸先の運動具メーカーに北京五輪用は作らないと伝えた。去年の11月のことだ。

「砲丸は私の分身です。とても中国には出せない。大事に使ってくれる選手には申し訳ないが、職人としての意地があります」

 五輪の砲丸は、審査を経て認められた数社の製品が公式球となり、選手は競技場でその中から使用球を選ぶ。アテネでは、決勝に残った8選手中7人が辻谷さんの砲丸を選択した。他の砲丸はインド製がかろうじて4位に入っただけだ。

 世界のトップ選手が「1~2メートルは記録が伸びる」と評価する「魔法の砲丸」の辞退で、北京五輪の優勝記録が少なくとも1メートルは短くなるとの予測もある。

 なぜ伸びるのか。「ローテクだから」と辻谷さんは言う。砲丸は鋳物の素材を旋盤で削って作る。男子用の基準は重さ7・26キロ。それより軽いものは認められない。誤差は+25グラムまで。外国メーカーはコンピューター制御のNC旋盤という機械を使い、基準の重さで球体に近づけていく。

 ところが、鋳物には鉄だけでなく、青銅や銅、その他の不純物が混じり、冷却時に残る空気のムラもある。完璧な球体だと重心が真ん中から大きく外れてしまうのだ。辻谷さんが使う汎用旋盤はハンドルで前後左右に刃を移動させながら削る。最先端のNC旋盤より手動のローテク旋盤が優れているのは、比重のムラを見極め、右側の半球を薄めに、左は少し厚く…といった応用が利くことだ。

 調節しながら重心を真ん中に持っていく。

 では、その比重のムラはどのように見極めるのか。「3つの要素の組み合わせです」と辻谷さんは言う。世界最強のローテクを支える3つの秘密とは何か。もう少し、辻谷さんの仕事に迫っていこう。(宮田一雄)

                   ◇

 五輪開催を控えた中国はいま、大気汚染や有毒ギョーザからチベット騒乱まで、あらゆる矛盾が噴き出した観がある。いち早く「たった1人の五輪ボイコット」を決めた辻谷さんの判断は、21世紀の日本の針路を考えるうえでも示唆的だ。日本はだめなのか。昨年の長期連載「やばいぞ日本」で、産経新聞取材班は、戦後日本の繁栄を支えてきたシステムの劣化をあらゆる場面で目撃した。その一方で、決してだめではない強さ、すごみが秘められていることも痛感した。

 たとえば、砲丸だけでなく、F1レースや自転車の国際競技で使われる車輪、W杯と五輪サッカーの公式球など、円形や球体を作る技術は傑出した技量で世界を制覇している。この技術を支えるものは何か。世界に翻弄され続ける通貨とは対照的な、もう一つの「円と球」の物語から、新しい連載を始めたい。

平成20年3月31日 8時3分 産経新聞

【すごいぞ日本】ファイルI 円と球(1)たった1人の五輪ボイコット
[PR]
by unkotamezou | 2008-03-31 08:03 | 歴史 傳統 文化
国立公文書館拡充へ有識者会議設置 「歴史資料の宝庫」次世代に

 国立公文書館の機能を拡充しようという機運が高まっている。博物館や図書館と違って一般には少し縁遠いが、お役所の文書を集めた公文書館は歴史資料の宝庫。年金記録、薬害肝炎リスト、古くは戦時中の慰安婦問題…。過去の公文書の散逸は、国民に不利益を招いてきた。政府はようやく「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」を設置し、公文書館の再整備に腰を上げた。(文化部 牛田久美)

                   ◇

 「(裁判の)実状が記録として判然と姿をあらわして来た」

 現在公開中の映画「明日への遺言」の原作小説『ながい旅』の作者、大岡昇平は、物語の執筆を一度はあきらめていた。しかし昭和56年、取材を再開する。きっかけは米国立公文書館の機密解除だった。

 「無差別爆撃が立証されたとき、裁判長も検察官も言葉がなく、しーんとなった」という軍事法廷の詳細などが、30年を経て明らかとなった。おかげで私たちはいま、敵対していた日米が心を一つにした歴史的場面を知ることができる。

 占領研究の名著といわれる、江藤淳の『閉された言語空間』も、米保管文書をひもといて書かれた。この2月には、当時の軍事資料を検討し、米核実験を論じた『封印されたヒロシマ・ナガサキ』が刊行された。米国立公文書館の玄関にはこう記されているという。

 「過去の遺産は将来の実りをもたらす種子である」

                   ◇

 欧州の公文書館も長い歴史を持つ。専門職が各省庁の文書を管理し、文書館へ移管する。市民の出生届から、閣僚の指示メモまで扱う。

 明治期に欧米を視察した岩倉具視は、イタリアで、300年前に当地を訪れた支倉常長の手紙を発見し、その驚きを記している。公文書館は、図書館、博物館と並ぶ3大文化施設だ。しかし、明治期、なぜか公文書館だけが日本に導入されなかった。

 国立公文書館が東京・北の丸公園にできたのは昭和46年。現在の職員数は42人で、平成23年までに39人に削減される。米国2500人、カナダ660人、中国620人、英国580人、仏460人と比べると、あまりにも貧弱だ。

 公文書の移管率も0・5%。移管の判断が各省庁に委ねられているのが大きな原因だ。情報公開制度の導入後、霞が関では「疑わしきは捨てよ」とさえ言われているとか。機密に属さない文書もやたらに(秘)印が押される。統一したルールづくりは急務だが、適正な保存のためには、まず同館の“法的位置づけ”をどうするかが重要だという。

                   ◇

 同館は13年から独立行政法人となった。「官僚が独法の言うことを聞くだろうか」と有識者からはため息が漏れる。

 12日に官邸で初会合を開いた有識者会議の尾崎護座長は「公文書館の権限をそぎ落としたことが過ちと気付いたら、正す気概も大事だ」と語る。「公文書館推進議員懇談会」の河村建夫議員も、「新しい役割を担うには、位置づけも施設もあまりに不十分」と強化を求める考えだ。

 電子記録をどう扱うか、文書管理の専門職をどう養成するかなど、課題は山積。未来を見渡すグランドデザインが必要だろう。菊池光興・国立公文書館長は「公文書保管は、民主主義の成熟度を示す。明日へ向かって胸を張る国になるために、整備を進めたい」と話している。

20/03/21 13:19 産經新聞

国立公文書館拡充へ有識者会議設置 「歴史資料の宝庫」次世代に
[PR]
by unkotamezou | 2008-03-21 13:19 | 歴史 傳統 文化
明石大佐調達の銃日本へ フィンランドから寄贈

 日露戦争(明治三十七~三十八年)中に帝政ロシアで革命を起こすため日本陸軍の明石元二郎大佐が欧州で大量調達したライフル銃の一丁が、このほどフィンランド中部のヤコブスタード市立歴史博物館から、靖国神社の戦史博物館「遊就館」に寄贈されることになった。

 欧州でロシアに対する情報収集や謀略活動に奔走していた明石大佐は、対ロ戦争を有利に運ぶためロシアで反政府派の武装蜂起支援を計画。当時ロシア領だったフィンランドのヤコブスタード沖で約一千丁のライフル銃などを同国の独立派に渡した。

 結局、フィンランドで蜂起はなく、銃は大正六年の独立後に起きた内戦に使われた。市立博物館は十二丁を所蔵するが、日露戦争を研究する稲葉千晴名城大教授の仲介で寄贈が決まった。

20/03/10 09:40 産經新聞

明石大佐調達の銃日本へ フィンランドから寄贈
[PR]
by unkotamezou | 2008-03-10 09:40 | 歴史 傳統 文化
沖縄集団自決で新証言 中尉「死に急ぐな」

 沖縄戦で大規模な集団自決が起きたのは、沖縄本島西方の慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島だ。米軍が上陸した昭和20年3月下旬、渡嘉敷島で320人、座間味島で170人を超える住民が自決したとされる。

 戦後間もない昭和25年に沖縄タイムス社から出された沖縄戦記「鉄の暴風」(初版は朝日新聞社刊)では、それぞれの島に駐屯していた日本軍の隊長の命令によって集団自決を強いられたとされ、大江健三郎さんの「沖縄ノート」や家永三郎さんの「太平洋戦争」など多くの出版物に引用されてきた。

 しかし、座間味島の集団自決については、梅沢少佐に自決用の弾薬類をもらいにいった人たちの中で、ただひとり生き残った女子青年団の宮城初江さんが生前の昭和50年代に、「梅沢少佐の自決命令はなかった。戦後、遺族の方が援護法の適用を受けられるように、事実と違う証言をした」などと娘や梅沢さんに告白している。

 今回、証言した宮平秀幸さんは、旧日本軍との交流について、次のような体験も話した。

 村長の解散指示が出された後の3月26日未明、宮平さん一家7人は梅沢少佐の配下にあった整備中隊の壕に行った。そこで、秀幸さんが中隊長の中尉に忠魂碑前で自決できなかったことを話すと、中尉は「死に急ぐことはない。1人でも多く生き残るべきだ」と話し、軍が保管していた玄米、乾パン、乾燥梅干しなどを与えられた。

 宮平さん一家は第1戦隊第2中隊の壕でも、別の中尉から、コンペイトウ、ミカンの缶詰、黒糖アメなどをもらった。

 日本側の記録によれば、その後、いずれの将校も米軍に斬り込み、戦死している。

 座間味島では今も、宮平さんを含め、日本軍のことを悪く言う住民は少ない。

 一方、渡嘉敷島の集団自決については、作家の曽野綾子さんが同島などを取材してまとめたノンフィクション「ある神話の背景」で、同島に駐屯した海上挺進隊第3戦隊長、赤松嘉次大尉が自決を命じたとする証言がなく、「鉄の暴風」や「沖縄ノート」の記述に疑問が提起された。

 最近、自由主義史観研究会の調査や本紙の取材で、沖縄県の元援護担当者の照屋昇雄さんが「軍命令は遺族に援護法を適用するための創作だった」と証言し、軍命令説はほぼ否定された。

 文部科学省はこうした学問状況を踏まえ、日本軍に集団自決を強制されたとする断定的な教科書記述に検定意見を付けたが、検定意見の撤回を求める沖縄県議会の決議などに押され、検定後の訂正申請で、軍の強制を意味する記述の復活を認める異例の措置をとった。

 また、梅沢元少佐(91)と赤松大尉の遺族は、大江さんらを名誉棄損で訴える訴訟を大阪地裁に起こし、今年3月28日に判決が言い渡される。

 大阪地裁の判決と今後の文科省の検定の行方が注目される。(石川水穂)

20/02/22 23:16

沖縄集団自決で新証言 中尉「死に急ぐな」
[PR]
by unkotamezou | 2008-02-22 23:16 | 歴史 傳統 文化
沖縄集団自決、隊長はいさめた 軍強制説否定する新証言

 沖縄県座間味島で起きた集団自決をめぐり、同島の村長が日本軍の隊長に集団自決をいさめられ、自決のために集まった住民に解散を指示していたことが、当時の防衛隊員の証言で明らかになった。教科書などで誤り伝えられている「日本軍強制(命令)」説を否定する有力な証言といえそうだ。

 証言したのは、座間味村で民宿などを経営する宮平秀幸さん(78)。沖縄戦(昭和20年3~6月)の当初、15歳の防衛隊員として、同島に駐屯した海上挺進隊第1戦隊長、梅沢裕少佐の伝令役を務めていた。

 宮平さんによると、同島に米軍が上陸する前日の昭和20年3月25日午後10時ごろ、野村正次郎村長、宮里盛秀助役ら村三役と国民学校長、役場職員、女子青年団の宮城初江さんが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねた。

 そこで、宮里助役らは「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めた。

 これに対し、梅沢少佐は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。

 村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が「おれの言うことが聞けないのか」と弾薬類の提供を強く拒否したため、村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に向かった。

 同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「部隊長(梅沢少佐)に自決用の弾薬類をもらいにいったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話した。このため、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。

 宮平さんは「私は、本部壕での村側と梅沢隊長のやりとりと、忠魂碑前での野村村長の指示をすぐ近くで聞いていた」と話す。

 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族はそれぞれの壕で集団自決したが、宮平さんら多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどした。宮平さんは米軍の迫撃砲で左足を負傷し、自分の家族の壕に戻ったところを米軍に見つかったという。

 宮平さんはまた、梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存している。そこにも、村三役と国民学校長らが自決用の劇薬、手榴弾、ダイナマイトなどをもらいにきたが、与えるべき武器、弾薬類がなかったことが書かれている。

 宮平さんは戦後、これらの事実を話す機会がなかったが、「昨年、集団自決をめぐる教科書の記述が問題となり、真実を伝えておきたいと思った」と話している。

20/02/22 23:15

沖縄集団自決、隊長はいさめた 軍強制説否定する新証言
[PR]
by unkotamezou | 2008-02-22 23:15 | 歴史 傳統 文化
日本国民であることに誇り、九十三%で過去最高

 日本国民であることを誇りに思う人は93%に達し、「国の役に立ちたい」と考える人も73%に上ることが、読売新聞社の年間連続調査「日本人」で明らかになった。

 いずれも過去の本社調査と比べて最も高い数値となり、戦後60年余りを経た今の日本人の「国家意識」の高まりがうかがえた。連続調査は、本社の毎月の世論調査が昭和53年3月の開始から今年で30年を迎えるのを機に、過去の調査結果とも比較し、変化を探るものだ。その1回目となる今回の調査は、「国家観」をテーマに12~13日に面接方式で実施した。

 今回、日本国民であることを「非常に誇りに思う」と答えた人は55%で、「少しは誇りに思う」は38%だった。「誇りには思わない」は6%に過ぎなかった。本社調査では同じ質問を昭和55年、61年、平成7年にも行っており、「非常に」「少しは」の合計は91%(61年)、「非常に」は54%(55年)が最高値だったが、今回はいずれもこれを上回った。

 「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容を複数回答で選んでもらったところ、「歴史、伝統、文化」を挙げた人が72%で最も多く、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)などがこれに続いた。61年の同様調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ち込んだのが目立った。

 「国民の一人として、ぜひとも国の役に立ちたい」との考え方については、「そう思う」が73%だったのに対し、「そうは思わない」は20%だった。平成17年の同様調査ではそれぞれ68%、28%で、国への貢献を前向きにとらえる意識が強まったことがわかる。

 政府のあり方について、「小さな政府」と「大きな政府」のどちらを望むかを尋ねたところ、「小さな政府」を選んだのは38%で、「大きな政府」の33%を上回った。

20年1月24日 22時59分 読売新聞

「日本国民に誇り」93%で過去最高…読売調査
[PR]
by unkotamezou | 2008-01-24 22:59 | 歴史 傳統 文化
南京陥落七十年「再検証」出版相次ぐ

 南京攻略戦の関連書籍の出版が相次いでいる。東京日日新聞の“百人斬り”記事によって銃殺刑に処された野田毅少尉が生前につづった『野田日記』が近く刊行されるほか、日中関係史、戦史、死傷者数の検証など多様な観点からの出版ラッシュだ。南京陥落(昭和12年12月13日)から間もなく70年。「大虐殺」説に基づく米映画が話題になるなど虚構が“事実”として広まるなか、きちんと史実を再検証しようという機運が高まっている。(桑原聡、牛田久美)

 『野田日記』は、直筆の7冊を遺族が保管していたものを展転社が書籍化。公開を前提とせず書き留められていたもので、出来事を活写した一次資料として貴重なものと校了前から予約が相次いでいるという。同社からは11月末に『「百人斬り訴訟」裁判記録集』も刊行された。

 南京事件の犠牲者数を4万人とみる実証史家、秦郁彦氏は『南京事件-「虐殺」の構造』(中公新書)の増補版を出版。“ニセ写真”の実証で知られる東中野修道氏は、一次資料で行軍を再現した『再現南京戦』(草思社)を刊行した。

 近現代史研究家の阿羅健一氏による『再検証 南京で本当は何が起こったのか』(徳間書店)は、国民党による「戦時宣伝」から「南京大虐殺」という虚構が生み出され、独り歩きを続けるプロセスの解明を試みていて興味深い。

 「大虐殺など存在しない。蒋介石の宣伝工作によるでっちあげだった」と阿羅氏は指摘する。東京裁判では、欧米の特派員のリポートや宣教師の証言が「大虐殺」の証拠とされた。だが、彼らが国民党に抱き込まれ、反日宣伝工作をしていたことなどが近年の研究で判明している。

 「毛沢東は、国民党の戦時宣伝だったことを知っていたから、昭和51年に死ぬまで『南京大虐殺』という言葉を口にしなかった。中国がこれを外交カードとして使うようになったのは、トウ小平が実権を握った80年代からです」

 昭和54年3月に発行された中国の中学用の歴史教科書のどこにも「南京大虐殺」の記述はない。教科書に初めて記述が登場するのは昭和56年。「日本軍は南京を占領すると狂ったように大規模な殺戮を展開した。(中略)殺害された者は30万人を下らなかった」という内容だった。

 日本でも、東京裁判終了後、20年あまりの間、「南京大虐殺」が報じられることはなかった。それは「南京攻略戦の周辺現場にいた人々が新聞社の中核にいたため」だという。「南京大虐殺」が再び注目を集めたのは昭和46(1971)年に本多勝一氏が朝日新聞に連載した「中国の旅」がきっかけだった。

 「本多氏以前にも『南京大虐殺』があったと信じるジャーナリストや学者が中国側に証言や史料を求めていた。こうした日本人の要求で、中国側は外交カードになると考え、『虚構』を『事実』とする準備を進めていった」(阿羅氏)

 南京攻略戦については「大虐殺」の存在を前提にした米ドキュメンタリー映画「南京」がアカデミー賞の有力候補に挙げられて話題になっている。歴史的事実がどうであるのか、冷静に見極めたい。

■南京攻略戦

 旧日本軍が中華民国首都・南京を攻撃した戦闘。中国側はその際に虐殺、略奪などが行われたと主張。死者数は当初「2万人」とされたが、中国側発表は「20万人」「30万人」と次第に膨れあがった。しかし、証拠とされるものは誇張や偽装だったことが実証的研究で明らかになっている。

19-12-08 00:40

南京陥落70年「再検証」出版相次ぐ
[PR]
by unkotamezou | 2007-12-08 00:40 | 歴史 傳統 文化