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カテゴリ:歴史 傳統 文化( 166 )
源氏物語、幻の続編「巣守帖」か 写本確認

 現代に伝えられる「源氏物語」54帖(じょう)には存在せず、古い注釈書などに巻名だけが残る「巣守帖(すもりのじょう)」とみられる写本の一部が残されていたのを、池田和臣中央大学教授(中古文学)が初めて確認した。

 光源氏の次男である薫や、孫の匂宮(におうみや)を描いた最終章「宇治十帖」の続編とされる内容。紫式部の死後、別人が書いたとの説が強いが、これまで実態がわからなかった幻の写本で、源氏物語の変遷を探る貴重な資料となりそうだ。

 池田教授が古書店から入手した15・5センチ四方の文書2枚。筆跡や紙質の鑑定などから、鎌倉末期から南北朝時代のものとみられる。

 源氏物語は54帖があったとされるが、鎌倉初期の故実書「白造紙(はくぞうし)」には、「巣守」など三つの物語名が巻名目録に加えられていたほか、人物紹介などを記した源氏物語古系図にも、「巣守」の名が挙げられていた。

 これらの資料に基づく「巣守」の粗筋は、薫の誠実さにひかれた「巣守の君」が若君を産み、求愛する匂宮の執着から逃れようと山中に隠れてひっそりと暮らす内容。見つかった写本には、山に沈む月を見ながら隠遁生活を送る「巣守の君」の心情を思わせる和歌が記されていた。

 池田教授は「『宇治十帖』で、浮舟をめぐる三角関係に敗れる薫に同情した後世の人物が、物語を対照的に書いた外伝だといえる」とし、執筆年代や人物の関係などから、散逸した写本にほぼ間違いないと結論づけた。21日に東京実践女子大で開かれるシンポジウムで報告する。

平成21年11月2日03時37分 読売新聞

源氏物語、幻の続編「巣守帖」か…写本確認
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by unkotamezou | 2009-11-02 03:37 | 歴史 傳統 文化
現代版朝鮮朝貢使が博多に上陸

 一般には「朝鮮通信使」という言葉は馴染みが薄いかもしれないがいま福岡アジアマンスのイベントのひとつとしてパレードが催され博多市民の歓迎を受けた。これは「福岡・釜山姉妹都市締結二十周年記念事業」として行われたものである。江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った朝貢使節団の再現である。

 「信を通じる」という意味の名を冠した使節が日本に派遣されたのは正長元年足利幕府六代将軍義教の就任時である。しかしその後秀吉の朝鮮征伐(文禄慶長の役)で途絶する(「朝鮮通信使縁りの町日韓交流新宮大会実行委員会」資料より)。

 その後徳川時代将軍の代替わりのお祝いに朝鮮国王の「国書」を携えて慶長十二年から二百年間に十二回来日している(『福岡アジアマンス平成二十一年公式ガイドブック』より)。

 九月二十日午後鮮やかな衣装を身にまとった釜山からの総勢百八十名の朝鮮通信使のパレードが行われた。天神冷泉公園を出発し川端商店街を通って櫛田神社裏を経てキャナルシティまで華やかに繰り広げられた。

 福岡藩は朝貢使の接待を相島でおこなったと言われている。福岡城下唐人町に居住する支那人朝鮮人との接触を避けたからである。

 来年十一月には新宮沖の相島で「朝鮮通信使縁りの町全国交流会」が計画されているのでこのパレードは市民の関心を高める有意義な企画であった。

平成二十一年九月二十五日 午前四時十八分

平成二十一年福岡アジアマンス始まる 現代版朝鮮朝貢使博多に上陸
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by unkotamezou | 2009-09-25 04:18 | 歴史 傳統 文化
シベリア抑留七十五万枚の証し 個人札をロシア公開

 第2次世界大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本軍人らの個人情報を記した新資料を、ロシア国立軍事公文書館が公開した。カード形式で約75万枚。シベリア抑留の全体像の解明につながると期待されている。全資料はスキャンしてCD化され、日本側に提供される。

 個人カードは図書館の検索用の目録に酷似。「サトウ」「スズキ」などと仕分けされた木箱の引き出しが約750個ずらりと並び、一つの引き出しに約1千枚のカードが保管されている。

 カードには収容所の番号をはじめ、「氏名」「誕生年・生誕地」「職業」「軍階級」「捕虜になった場所と時期」「移動歴」など、表と裏に計13の欄がある。それぞれの収容所で手書きされ、かすかに変色していた。

 カードは館内の別の収納庫に保管されている約56万人分の個人ファイルを引き出す目録の役割を担う。コロタエフ副館長によると、カード2~3枚に重複している人もあり、最終的にカード数はファイル数に近づくとみている。

 逆に、引き出し一つ当たりに5~8枚程度、個人ファイルの番号欄が空白のカードがあり、数千人分の新情報になる可能性がある。日本の厚生労働省は、モンゴルを除くシベリア抑留者を約56万1千人、うち死亡者を約5万3千人と推定しているが、これまでロシア側から提供された死亡者名簿は約4万1千人分。死亡推定者の日本側資料とカードを照合し、死亡時期や埋葬地の解明など空白を埋めることも期待される。

 日ロ両政府はカードの写しの提供で月内にも正式に署名する方向で、費用負担などを調整中。カードのCD化作業に1年弱かかるとしている。

平成21年9月8日0時29分

シベリア抑留、75万枚の証し 個人カードをロシア公開
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by unkotamezou | 2009-09-08 00:29 | 歴史 傳統 文化
陸軍報道部員の写真発見 支那戦線撮った七百八十枚

 旧陸軍の報道部員が戦時下の昭和15~17年ごろ、中国・漢口(現在の武漢)周辺で撮影した写真約780枚が13日までに見つかった。銃を肩に黙々と行軍する部隊や、最前線で敵陣を砲撃する瞬間のほか、戦闘の合間にくつろぐ兵士たち、路上でたばこや南京豆を売る中国民衆の姿も克明にとらえている。

 漢口に拠点を置いた部隊の報道部員だった奈良市の柏原英一さん=兵庫県尼崎市出身=が今年7月、95歳で死去。遺族がアルバム7冊に整理された写真を見つけた。写真の大部分は柏原さんが撮影したとみられる。

 戦地で迎えた元旦を祝って軍用機にもちを供えたり、敵将の蒋介石に見立てた雪だるまにひげを描いたりする兵士たち。慰問に来た横綱双葉山や俳優の上原謙ら、当時の有名人も写されていた。

 梅渓昇・大阪大名誉教授(日本近代史)は「戦争の実像が感じ取れる貴重な資料だ」と話している。

21.8.13 08:34

陸軍報道部員の写真発見 中国戦線撮った780枚
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by unkotamezou | 2009-08-13 08:34 | 歴史 傳統 文化
京都葵祭、牛車の牛が足りない

 15日に行われる京都三大祭の一つ「葵祭」の行列を華やかに飾る牛車(ぎっしゃ)を引く牛の調達が困難に陥り、今年は岡山県内で初めて調達され、“ルーキー”の牛4頭が急遽訓練され、初参加することになった。昨年まで牛を提供してきた所有者が死亡し、牛車を引いた牛が人手に渡った上、牛飼育農家の激減と調教者の後継者不足が主な原因。今年は何とかしのぐことができたものの、今後を不安視する声もあり、伝統の祭りが岐路に立たされている。

 葵祭はヒロイン・斎王代をはじめ、時代衣装で約8キロを練り歩く。平安絵巻を思わせる行列には、フジなどで飾られたひときわ華やかな牛車2台が含まれ、牛は実際に引く2頭と、交代用2頭の計4頭が必要。

 牛や馬の調達にあたる明馬会会長の高岡正昭さん(70)は「1・5トンもの牛車を引く体力が求められるうえ、長距離の巡行でも暴れたりしないよう調教されていないと務まらない」と話し、牛探しに奔走。岡山県新見市の所有者の協力を得ることができた。

 一方、牛は時代祭(10月)などでも使われることから、伝統の継承を不安視する関係者も多く、高岡さんは「祭りのためだけに牛や馬を飼い、調教するのは物理的にも経済的にも難しい」と頭を悩ませる。葵祭行列保存会会長で京都橘大名誉教授の猪熊兼勝さん(71)も「牛や馬は京都の何百という数の祭りにかかわっている。伝統を守るため、対策の重要性を行政に訴えたい」と話した。

平成21年5月14日14時33分 産経新聞

京都・葵祭、牛車の牛足りない! 急遽“ルーキー”参加へ
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by unkotamezou | 2009-05-14 14:33 | 歴史 傳統 文化
休園テーマパークに戦艦三笠を復元

 石川県加賀市の時代劇テーマパーク「加賀百万石時代村」(休園中)の敷地内に7月、日露戦争で活躍した日本海軍の戦艦「三笠」が実物大で復元されることになった。高さ約50メートルのマストや司令塔などの内装を忠実に再現し、NHKが今年秋から23年秋にかけて放送予定のスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)のロケにも使われる。テーマパークは6月中旬に再オープンの予定で、“新生時代村”の目玉として注目を集めそうだ。

 「加賀百万石時代村」は平成8年にオープンしたが入場者が減少し、18年から休園。経営権を取得した「大江戸温泉物語」(東京都)が再建を検討する中、多くの加賀市出身者が三笠の乗組員として戦ったことが判明。NHKドラマと連動し、ロケを誘致すれば入場者増も見込めるとみて、三笠の復元を決めた。

 三笠は明治35年に英国で建造され、全長131・7メートル。日露戦争では東郷平八郎司令長官や「坂の上の雲」の主役の1人である秋山真之参謀が乗鑑し、連合艦隊の旗艦として活躍した。38年の日本海海戦ではロシア・バルチック艦隊と戦い、勝利に貢献。現在は神奈川県横須賀市に記念鑑として保存されている。

 今回復元されるのは、船首から約100メートルの部分。月内にも着工、7月中ごろの完成を予定している。NHKロケは今年末から約70日の予定で、撮影見学などのイベントも開かれる。大江戸温泉物語は「日本人が近代国家建設に向けて歩み続けてきた時代を感じ、これからの日本を考えるきっかけにしてほしい」と話している。

平成12年1月12日19時46分 産経新聞

休園テーマパークに戦艦三笠を復元
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by unkotamezou | 2009-01-12 19:46 | 歴史 傳統 文化
平安時代の神像五体-「起請文」の塩津港遺跡

 滋賀県教育委員会は10日、同県西浅井町の塩津港遺跡から平安時代後期ごろに作られた木製の神像5体が出土したと発表した。神像が出土したのは島根県出雲市の青木遺跡に次いで2例目で、一度に5体も見つかったのは初めてという。

 神像はご神体と同様に扱われ、本殿の中にあり神官さえ見ることができないとされていた。県教委は同遺跡が神社跡であることが裏付けられたとした上で、「当時の神仏習合の在り方など、神社の様子を知る上で貴重な史料」としている。

 神像は高さ12-15センチ。服装から3体は女神像とみられる。男の神像のうち1体は平安貴族の礼装で、冠を頂き、手を胸元で合わせた格好をしている。

 5体とも、本殿が建っていたとみられる場所の真裏にある堀に埋まっていた。内大臣中山忠親の日記「山槐記」に、文治元年に近江地方で大地震があったとする記述があり、県教委とともに調査に当たった県文化財保護協会は「この地震で本殿が倒壊したのではないか」とみている。

 同遺跡では昨年、神への誓約文である「起請文」が書かれた木簡55本が出土していた。

平成20年11月10日17時6分 時事通信

平安時代の神像5体=神社跡を裏付ける-「起請文」の塩津港遺跡・滋賀
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by unkotamezou | 2008-11-10 17:06 | 歴史 傳統 文化
日本は侵略国家であったのか

第一回「真の近現代史観」最優秀論文

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は十九世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。千九百三十六年の第二次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって千九百三十七年八月十五日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻ぼうれい膺懲ようちょうし以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

 千九百二十八年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の千九百三十七年七月七日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の千九百三十二年一月には三千万人の人口であったが、毎年百万人以上も人口が増え続け、千九百四十五年の終戦時には五千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか十五年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の三十五年間で一千三百万人の人口が二千五百万人と約二倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また千九百二十四年には朝鮮に京城帝国大学、千九百二十八年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降九つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は六番目、台北帝国大学は七番目に造られた。その後八番目が千九百三十一年の大阪帝国大学、九番目が千九百三十九年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校二十六期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約一千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。

 李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の二十九期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で十歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子まさこ妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために千九百三十年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

 時間は遡るが、清国は千九百年の義和団事件の事後処理を迫られ千九百一年に我が国を含む十一カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初二千六百名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また千九百十五年には袁世凱政府との四ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華二十一箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし四年後の千九百十九年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華二十一箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。千九百一年から置かれることになった北京の日本軍は、三十六年後の廬溝橋事件の時でさえ五千六百名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し三百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成十八年五月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは千九百四十年から千九百四十八年までの八年間これをモニターしていた。当時ソ連は一回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である千九百四十三年から解読作業を開始した。そしてなんと三十七年もかかって、レーガン政権が出来る直前の千九百八十年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し千九百九十五年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば千九百三十三年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には三百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー二の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機百機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二、第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は六十年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後六十三年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は二十年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘や捏造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

日本は侵略国家であったのか 田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将)
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by unkotamezou | 2008-10-31 11:10 | 歴史 傳統 文化
源氏物語「梅枝の巻」最古級の写本 勝海舟の蔵書印

 甲南女子大(神戸市東灘区)が所蔵する源氏物語「梅枝(うめがえ)の巻」が、鎌倉中期(13世紀半ばごろ)の写本であることが分かり、同大学が29日、発表した。現存する「梅枝の巻」の中では、東京国立博物館所蔵の「保坂本」と呼ばれる写本と並び最古級という。本文には代表的な写本である藤原定家編纂(へんさん)の「青表紙本」にはない独自の文もあり、源氏物語研究の上で貴重な史料となりそうだ。

 写本は縦15・4センチ、横15・6センチのほぼ正方形で全74ページ。昭和48年に同大が京都の古書店から購入した。2ページ目には幕末に活躍した軍艦奉行・勝海舟が、明治維新後に名乗っていた「勝安芳」との蔵書印があり、幕末から明治初期には源氏物語が男女を問わず広く親しまれていたことがうかがえるという。

 今年8月、源氏物語千年紀にあわせ、同大文学部の米田明美教授(53)が再読したところ、現存の源氏物語の写本にはなかった、登場人物のせりふなどがみつかった。このため関西大学の田中登教授に鑑定を依頼。書体や装丁などから、鎌倉中期の1240~80年ごろに書写されたものであると結論付けられた。

 源氏物語は作者の紫式部が書いた原本が残っておらず、書き写しで伝えられてきた。写本の系統では藤原定家が書写・改訂した「青表紙本系」と、鎌倉初期に校訂された「河内本系」が約9割を占める。今回の写本は、その内容の違いなどから「別本系」であることが判明。今後の源氏物語の研究にも影響を与えそうだ。

 写本は11月4~7日と10日の5日間、甲南女子大図書館で無料で一般公開される。

■「新たな物語の世界読み取れる」

 国文学研究資料館の伊井春樹館長の話 「源氏物語は藤原定家が編纂した『青表紙本』が一般的になってしまったので、これまで『別本』と呼ばれるほかの写本にあまり注目が集まらなかった。鎌倉時代中期と古く、表現の異なる部分がある写本が出たことで、青表紙本とどういう違いがあるかなど、さまざまな研究が進む史料になると思う。今までと違う源氏物語の世界を読み取ることができるのではないか。そういう意味で、別本に光が当たるのはいいことだと思う」

【用語解説】源氏物語

 平安中期に紫式部が創作した長編物語。光源氏を主人公に恋愛など宮廷生活を中心とした帝王4代、70年余りを描いている。桐壺(きりつぼ)から夢浮橋(ゆめのうきはし)までの54巻から成る。江戸時代に版本が普及するまで、書き写しで伝えられてきた。鎌倉時代に藤原定家が編纂した「青表紙本」や源光行らによる「河内本」が代表的な写本とされる。今年は物語が記録の上で確認されてから1000年に当たり、京都などでさまざまな関連行事が行われている。

20/10/29 21:18

源氏物語「梅枝の巻」最古級の写本 勝海舟の蔵書印
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by unkotamezou | 2008-10-29 21:18 | 歴史 傳統 文化
奈良時代の大宰府に「交通ルール」牛車と人が分かれて通行

 福岡県太宰府市教委は8日、同市都府楼南5丁目の大宰府条坊跡発掘現場で、わだち跡のある奈良時代(8世紀)の条坊道路を発見したと発表した。わだちは路面の中央と左右の路肩に3本の筋を引くように見つかり、同市教委は「二輪の牛車(ぎっしゃ)などが道路の左右に分かれて通行していたと考えられ、一定の交通ルールが既に確立されていたのではないか」と分析している。

 発見された道路の幅は約3メートル。路面には縦方向にいくつもの溝が残され、路面中央と左右の路肩に集中している。わだちとわだちの間は1.0‐1.2メートルで、往来した牛車などの車輪間の幅が推測できる。わだちの深い部分は10センチ以上も地面に食い込んでいる様子が分かり、牛とみられる足跡も多数残されている。

 路肩の両側には側溝跡(幅2.0‐2.5メートル、深さ50センチ)も見つかった。片方(西側)の側溝にはわだちはなく、人や牛の足跡だけが見つかったことから、「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」(市教委)という。

 大宰府条坊は、大宰府政庁を北端の中心に置き、碁盤目状に道路を整備した約2キロ四方の計画都市。今回の発掘現場は、条坊の南端に近い、中央より約200メートル西側の地点。発見されたのは南北に走る道路に当たる。

 市教委は「条坊道路が高い道路機能を備えていたことが確認できた。古代大宰府の交通事情は文字による記録がないだけに今回の発見は貴重だ」としている。

20年10月9日 00:23 西日本新聞

古代大宰府に“交通ルール”!? 牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡
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by unkotamezou | 2008-10-09 00:23 | 歴史 傳統 文化