ブログトップ
たった一人の五輪ボイコット

 平成8年アトランタから16年アテネまで、日本が3大会連続で金銀銅メダルを独占してきた五輪種目がある。陸上男子砲丸投げ。といっても選手の話ではない。メダルを獲得した選手の砲丸が、ことごとく日本の、それも小さな町工場で作られているのだ。北京でも当然、日本製「魔法の砲丸」のメダル独占は確実…のはずだった。

 埼玉県富士見市。有限会社辻谷工業は東京近郊の小さな商店街の一画にある。2階建ての1階が工場、上は自宅。旋盤のハンドルを握り、黙々と砲丸を削っていた辻谷政久さん(75)があっさりと言った。

「北京はやめました」

 平成16年8月、サッカーのアジアカップが中国・重慶で開かれた際、現地サポーターが見せた日本に対するむき出しの憎悪。それが辻谷さんには気がかりだった。悩みに悩んだ末、4大会連続メダル独占の偉業を断念し、砲丸の卸先の運動具メーカーに北京五輪用は作らないと伝えた。去年の11月のことだ。

「砲丸は私の分身です。とても中国には出せない。大事に使ってくれる選手には申し訳ないが、職人としての意地があります」

 五輪の砲丸は、審査を経て認められた数社の製品が公式球となり、選手は競技場でその中から使用球を選ぶ。アテネでは、決勝に残った8選手中7人が辻谷さんの砲丸を選択した。他の砲丸はインド製がかろうじて4位に入っただけだ。

 世界のトップ選手が「1~2メートルは記録が伸びる」と評価する「魔法の砲丸」の辞退で、北京五輪の優勝記録が少なくとも1メートルは短くなるとの予測もある。

 なぜ伸びるのか。「ローテクだから」と辻谷さんは言う。砲丸は鋳物の素材を旋盤で削って作る。男子用の基準は重さ7・26キロ。それより軽いものは認められない。誤差は+25グラムまで。外国メーカーはコンピューター制御のNC旋盤という機械を使い、基準の重さで球体に近づけていく。

 ところが、鋳物には鉄だけでなく、青銅や銅、その他の不純物が混じり、冷却時に残る空気のムラもある。完璧な球体だと重心が真ん中から大きく外れてしまうのだ。辻谷さんが使う汎用旋盤はハンドルで前後左右に刃を移動させながら削る。最先端のNC旋盤より手動のローテク旋盤が優れているのは、比重のムラを見極め、右側の半球を薄めに、左は少し厚く…といった応用が利くことだ。

 調節しながら重心を真ん中に持っていく。

 では、その比重のムラはどのように見極めるのか。「3つの要素の組み合わせです」と辻谷さんは言う。世界最強のローテクを支える3つの秘密とは何か。もう少し、辻谷さんの仕事に迫っていこう。(宮田一雄)

                   ◇

 五輪開催を控えた中国はいま、大気汚染や有毒ギョーザからチベット騒乱まで、あらゆる矛盾が噴き出した観がある。いち早く「たった1人の五輪ボイコット」を決めた辻谷さんの判断は、21世紀の日本の針路を考えるうえでも示唆的だ。日本はだめなのか。昨年の長期連載「やばいぞ日本」で、産経新聞取材班は、戦後日本の繁栄を支えてきたシステムの劣化をあらゆる場面で目撃した。その一方で、決してだめではない強さ、すごみが秘められていることも痛感した。

 たとえば、砲丸だけでなく、F1レースや自転車の国際競技で使われる車輪、W杯と五輪サッカーの公式球など、円形や球体を作る技術は傑出した技量で世界を制覇している。この技術を支えるものは何か。世界に翻弄され続ける通貨とは対照的な、もう一つの「円と球」の物語から、新しい連載を始めたい。

平成20年3月31日 8時3分 産経新聞

【すごいぞ日本】ファイルI 円と球(1)たった1人の五輪ボイコット
[PR]
by unkotamezou | 2008-03-31 08:03 | 歴史 傳統 文化