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南京事件「大虐殺とよべるものはなかった」

「大虐殺とよべるものはなかった。あれは南京の政治である」北村稔教授が外国人特派員協会で客観的な論考を講演

 日本外国特派員協会で、立命館大学教授の北村稔氏が、新著『The Politics of Nanjing』(「南京」の政治学)について会見をしました。会場には五十人以上が詰めかけ、その中には藤岡信勝氏・田久保忠衛氏らの顔が見え、"China" とシールの貼られたビデオを回す見慣れないカメラマンが入り込み、北村氏と欧米人記者との間の質疑応答では白熱した議論が展開されました。北村氏の新著は、五年前に出版された『「南京事件」の探求 ─ その実像を求めて』の英訳本で、翻訳者ハル・ゴールド氏も隣席していました。

 同書の主題は、先の大戦中の昭和十二年末から十三年にかけて南京に進駐した日本軍によるマサクル(虐殺)があったどうかの検証です。同書の結論は、《虐殺と呼べる事実》はなかったというものです。リベラル派(日本にいる外人記者・ジャーナリストのほとんどは、そう思っていい)の滞日数十年の古株外人記者たちが正面最前席に陣取り、緊張した空気が漂っていました。

 北村氏の英語のスピーチは以下のようなものでした。

● 昭和十二年~十三年にかけての日本軍の南京占領下の状況をマサクル(虐殺)と呼ぶべきか、ディスオーダー(混乱)と云うべきかに焦点を当てて論じたのが、私の英語の新著『The Politics of Nanjing』である。

● 内容は5年前に文芸春秋新書から出した『「南京事件」の探求 ─ その実像を求めて』と九十%は同じである。この五年の間に見出された事柄や所謂《百人斬り事件》についての新事実は脚注の形で入れ込んだ。

●「南京事件」についての中国側の主張は一致していて、三十万人虐殺説である。日本側はそれを真っ向から否定している。

● 新著は《中立者》の立場から歴史を再現し検証したものである。新著が依拠したのは、南京と東京で戦後行われた戦争犯罪人裁判で下された判決を形成したアメリカ人、中国人、欧州人の証言や彼らが提示した証拠である。

● 日本人の証言は採用しなかった。日本人の調査によってもたらされた証拠も採用しなかった。もしこれらを採用したなら、日本の立場を擁護する政治的偏向の書であるとの非難を惹起し、人々は私の調査に関心を寄せないだろうと考えたからである。それらの証言・証拠を分類し、ひとつひとつが生み出された由来・背景・事情を鑑定し、その信頼度を確認した。一つ一つの証言が証人によって実際に目撃されたものかを詳細に調べた。

● これらを吟味する作業は、社会的な常識、《コモンセンス》を以ってした。《コモンセンス》を以って、所与の状況下での人々の行動の質と規模の蓋然性について合理的判断を下した。こうしてこそ、読者の理解を得ることになるからである。

△ 論考はコモンセンスをもって

● 多様な証拠や証言について、判断力を具えた人々の大多数が、矛盾がない妥当であると思うことを判定の拠りどころとした。採用した審査員団のリーダーにも、私(北村)が学術的な調査・手法を通じて集めた発見物を提示し、《コモンセンス》を以って合理的に判断してもらった。

 以上の手法から到達した結論は、混乱(コンフージョン)や無秩序(ディスオーダー)は存在したと云えるが、決して虐殺(マサクル)はなかったというものだ。戦闘員による計画的な、ナチがユダヤ人にしたような大虐殺は日本軍占領下の南京ではなかった。

● 秩序の乱れとは、法的な手続きを経ない戦争犯罪人 (POW) の処刑である。これは絶対的な食物不足から大量の POW(後の質疑で一万人と北村氏は記者に応えていた)の処刑が行われた。

● 中国人は南京市内でなく、多くはその外で死んだ。大量の中国人市民が中国人兵隊と混在し、南京から避難しようとした混乱があった。その避難民を日本海軍の爆撃機は攻撃し、多くの中国人は揚子江のえん堤周辺で命を失った。この悲劇の一因は、南京を守っていた中国兵が、避難に欠かせない渡河船・艀をすべて焼いて沈めたことにある。

● 国民党軍の南京司令官唐生智は最後の一兵まで日本軍と闘うと宣言して、日本軍の降伏勧告を拒絶した。しかし唐生智は南京陥落の一日前に自分の逃亡用に確保していた蒸気船に乗って逃げ、一万人近くの兵を置き去りにした。これは蒋介石の命令によりなされた。残された中国軍から統率は失われ、指揮命令系統は絶たれ、彼らは絶望的な混乱に陥った。

● ジョン・ラーべは南京の守護者・擁護者として、アイリス・チャン本に登場する有名なドイツ人である。彼は、ドイツ企業シーメンスの南京代表で、ナチであった。蒋介石はドイツ・ナチと友好関係を結んでおり、ナチから軍事顧問団を迎え、シーメンスから大量の兵器や戦闘用備品を購入していた。ラーベやドイツ軍事顧問団は、他の西欧人とともに南京陥落後も市内に留まり、安全区に《国際コミティ》を形成した。ここに逃げ込んできた避難民に水や食料を供給していた。

● 一方、親日中国人層により形成された《安全政府コミティ》もあって、日本軍・日本領事館はこれをサポートした。日本軍は《安全政府コミティ》に施政権を渡して、占領を解きたかったが、彼らが自立できず叶わなかった。これは早急にイラク人に施政権を渡して、そこから引き上げたい今のアメリカ軍と同様であった。

● 米・露大使館含め現地に留まった西欧人は慈善行為に努めただけでなく、南京市内外で生起していた状況をよくリポートした。これらのリポートは、都度日本領事館にも渡された。蒋介石の国民党政府はリポートを集成し、内容を確認して、南京陥落から二年後の昭和十四年、上海と香港で南京安全区のドキュメント資料として出版した。ここにその本を持参したが、その中のエピソードをふたつ紹介する。

 ひとつは、昭和十三年一月初め、日本軍が米を安全区外の中国人に配給していること。

 もうひとつは、日本軍の援助で行われた米と小麦粉の配給についてで、ラーベから日本領事館の福田参事への手紙がそのことに触れている。

 「一九三八年一月八日、《安全政府コミティ》により千二百五十袋の米がただで配られ、一万袋の米が売られることになった。九日それらの米を運んでくれと頼まれトラック五台を手配して、十日に実施されるとそれらは瞬く間に無くなった。日本軍が同地区で登録した十歳以下の幼少児を除く十六万人の人口から推して、他地区の人口と併せると南京には二十五から三十万人がいると推計される。そうすると一日に必要な米の量は二千反になる。アドバイスや援助が必要なら遠慮なく申し出て欲しい」とラーベの手紙は書かれている。

● このことは当時の南京で、西欧人の《国際コミティ》と中国人の《安全政府コミティ》と日本軍・政府が緊密な協力関係を築いていたことを示している。大虐殺があったという主張と著しく矛盾する第三者である西欧人(ジョン・ラーベ)の残した証拠である。

△ 戦犯をでっちあげるために

 虐殺がなかったにもかかわらず、なぜ戦後戦争犯罪人を裁く法廷で、「南京虐殺」として日本軍は訴追されたのか? それは次の二つの要因があると考えられる。

 ひとつはA級戦犯の基準づくりである。チェコ人のエチェル博士が主張した文明破壊と看做されるナチの非道なホロコーストと同様の文明破壊を日本軍も冒したことにし、A級戦犯として特徴づける必要が生じたのである。そのために南京での混乱を虐殺に格上げすることにしたのである。これはイスラエル人のコチャービが日本軍を直接採り上げていないエチェル説を精緻に分析したものに基づいた、私(北村)の仮説である。

 二つ目の要因は中国人の文化的誇張癖である。中国人は悪名高い、誇張癖を発揮する民族である。時としてウソ(に近いもの)となる。戦後の法廷で、小さな慈善団体の代表が日本軍の南京占領下、一ト月で十万体以上の死体を埋めたという証言や、市民の間に逃げ隠れた正規の警察官が五千人以上の処刑を目撃した証言などが証拠採用されている。

 北村氏のスピーチの大要は以上で、この後、記者たちとの質疑に移りました。まず、TVによく登場する禿頭鬚面のドイツ人が、虐殺と虐殺でない行為の境界線をどこに引くのかとの質問を北村氏にぶつけてきました。北村氏は温厚に静かな口調で、「私の主張は虐殺と呼べる行為はなかったというものです」とかわしていました。

 続いてこれもTVにも登場する滞日四十年以上の米人ジャーナリストが、南京で日本軍は何人殺したかその数字を北村氏に問い質しました。これに北村氏は、丁寧に「そういう調査はしていないのです」と応えたのですが、数字を挙げろとしつこく食い下がられ辟易気味でした。

 藤岡信勝氏が『正論』五月号への寄稿文で次のように述べている件りがあります。(百三十四頁)(引用開始)「かつてに比べると、中国は柔軟になった、という人もいよう。しかし、これは大きな罠であると考えなければならない。今年十本近くつくられる「南京」映画では虐殺が三十万人である必要はない。仮に数万の虐殺を前提にしたとしても、映像化には少しの支障もないからである。中国は日中歴史共同研究の場で、日本側に規模を縮小しつつも虐殺があったことを確定させたいのである。この点で注意すべきことは、「大虐殺派」、「中虐殺派」、「まぼろし派」の三分類を未だに反復することは意味がないということである。もともと、この分類は、「いくら何でも三十万は多すぎる、かといって全くゼロというのは極論だ」という形で、中虐殺派の説(一万~四万程度)に人々を誘導するようにつくられた図式なのである。しかし、本家の中国までが「大虐殺」説を維持できないと見て放棄するようになっている。今提起されるべき争点は、使い古しの三分法ではなく、虐殺があったか無かったかの二分法である。

 第二に、やはり「虐殺」の定義を問題にせざるを得ない。その場合、重要なポイントを述べよう。例えば、戦争で多くの人が死ぬ。その殺し方が残虐なものが残虐だという定義をする人がいる。何が残虐かは個々人の主観に依存する。これでは、議論は決め手のない泥沼に入るだけだ。一人でも虐殺があれば虐殺だという人もいる。こういう基準を第二次世界大戦の全戦線に公平にあてがってみるとよい。ほとんど無意味な議論になることがわかるだろう。

 個々の兵士の中に不心得者がいることは、どこの国の軍隊でも変わりがない。そういう行為を軍が行った作戦行動と同一視することはできない。国家として責任が問われるのは、軍の正規の手続きで行われた違法行為に限られる。最後に、戦時国際法上合法的な行為であるところの、不法戦闘員の処刑を虐殺にすり替えることはできない。以上のことから、歴史的事件としての、軍隊による「虐殺」を語るためには、組織性、違法性、大量性の三つの条件を前提にすべきであろう。こうした概念上の土俵が正しく設定されないと、議論は混乱するばかりである。」(引用止め)

 北村氏の会見内容と藤岡氏の論考を併せて受容すると、ことの理解は得やすいと思います。ナチがユダヤ人にしたことは、組織性、違法性、大量性を具えた紛うかたなき「大虐殺」であり、「南京」事件は「虐殺」に格上げするべく画策された大いなる絵空事だということが分かります。

 映画『南京の真実』は、《敵》の土俵に乗ることなく、日本軍の南京占領下での死者数は等閑視し、「虐殺性」の有無に焦点をあてたコンセプトにして頂きたいものです。《敵》の狡知・奸智を圧倒する日本映画にして頂きたいと思います。(西法太郎 記)

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成十九年(西暦二千七年)四月六日(金曜日)通巻第千七百六十三号

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by unkotamezou | 2007-04-06 16:47 | 歴史 傳統 文化