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天皇皇后両陛下の外国ご訪問前の記者会見の内容 宮内記者会代表質問

一 ご訪問国 : スウェーデン、エストニア、ラトビア、リトアニア、英国
二 ご訪問期間: 平成十九年五月二十一日~五月三十日
三 会見年月日: 平成十九年五月十四日
四 会見場所 : 宮殿 石橋の間

(宮内記者会代表質問)

問一 天皇皇后両陛下に伺います。今回のご訪問は、長年にわたって交流を重ねてこられたスウェーデン、英国への再訪と、旧ソ連圏のエストニア、ラトビア、リトアニアへの初めての訪問、生物学者リンネの生誕三百年記念行事という三つの側面を持っています。それぞれの国に寄せる思いや抱負、ご研究を通じてリンネの業績から学ばれたことなどをお聞かせください。

天皇陛下 三年前、英国のロンドン・リンネ協会から、平成十九年にリンネ生誕三百年を祝うこととなるので、ロンドンのリンネ協会の記念行事に参加できないかとの打診があり、その後、英国政府からの招待がありました。また、昨年に入ってスウェーデン政府からも、やはりリンネ生誕三百年の記念行事が行われるとして招待があり、今回、これらの招待にこたえて、両国を訪れることになりました。

 私は皇太子であった昭和五十五年にロンドン・リンネ協会から魚類学への貢献ということで、外国会員に選ばれました。外国会員の名簿を見ると、会員は五十人で、日本人では植物学の原東京大学名誉教授がおられるだけでした。私にとっては誠に過分のこととは思いましたが、それを励みに研究に努力してきたつもりです。ロンドン・リンネ協会には、会員に選ばれた翌年、当時の皇太子妃と共に英国皇太子殿下の結婚式典参列の機会に訪れました。昭和六十一年名誉会員に選ばれ今日に至っています。この度、このような関係にあったロンドン・リンネ協会のリンネ生誕三百年の記念行事に出席することをうれしく思っております。

 リンネの今日に残る業績は二名法の学名を創始したことだと思います。学名は属名と種名の結合で成り立っていますが、二名法の学名が創設される以前の学名の種名は、属内の他種から区別される特徴を記述する部分でありました。したがって同一属内に数種があり、幾つかの特徴で他種から区別しなければならない場合には種名の語数が長くなりました。リンネはこのように属名と長短定まらない種名との結合の代わりに、属名と特徴を示すとは限らない一語の種名を結合した二名法の学名を創設しました。そして特徴を示す記述は別項にして、学名から切り離されました。この措置により学名は二語の簡便なものとなり、今日、世界共通の動植物の名称として、学界はもとより多くの人々によって使われています。二語であれば覚えやすく、動植物の話をするとき、学名を使って話をすることもできます。皇居の東御苑にはかなりの数の外国人が訪れています。外国人で植物を見て楽しむ人々のことを考え、和名のほかに学名を付けるようにしています。

 スウェーデンでは、三月に国賓として日本にお迎えした国王王妃両陛下に再びお目にかかるのを楽しみにしております。また到着の翌々日にはリンネが教授であったウプサラ大学で行われるリンネ生誕三百年の記念行事に国王王妃両陛下と参列し、リンネの業績をしのびたく思います。この前ウプサラ大学を訪問したのは二十年以上前のことで、スウェーデン国王王妃両陛下の国賓としてのご訪日に対する昭和天皇の名代としての答訪で、皇太子妃と共にスウェーデンを訪問したときのことです。ここにはリンネの弟子で、長崎出島のオランダ商館の医師を務めていたツュンベリーも教授として務めていました。ツュンベリーは鎖国の日本へ足を踏み入れましたが、ツュンベリー来日の前年には杉田玄白らでオランダ語から訳した「解体新書」が刊行されるなど蘭学が盛んになり、欧州の医学への関心も高まっているときでした。「解体新書」の訳に加わった医師の中にはツュンベリー帰国後もツュンベリーあてに手紙を出した人もおり、ウプサラ大学でその手紙を見ることができたことはうれしいことでした。ツュンベリーの日本滞在記を読むと、異なった文化の中で育った人々を理解しようとするツュンベリーの温かい人柄が感じられます。

 スウェーデンと英国で行われるリンネ生誕三百年の記念行事の間に、エストニア、ラトビア、リトアニアの大統領閣下からのご招待により、この三か国を訪れます。帝政ロシア領であったこれら三か国は、ロシア革命を受けて大正七年に独立を宣言しましたが、昭和三十五年にはソ連に併合されて独立を失い、第二次世界大戦中は独ソ戦の戦場となって多くの人命が失われました。平成三年、ソ連邦の崩壊の過程で、ようやく独立を回復することとなりました。ソ連邦はその後十五の独立国になりましたが、これら三か国はソ連邦内からの初めての独立で、当時私どもも大きな関心を持って見守ったことでした。リトアニアが厳しい状況下で独立を果たした翌年、ランズベルギス最高会議議長ご夫妻が日本をお訪ねになり、皇居で皇后と共にお会いしたことが思い起こされます。リトアニアの画家であり音楽家であるチュルリョーニスの展覧会が東京で開かれるに当たり、議長はチュルリョーニスの研究者である立場から訪日されたものでした。私どもも後にその展覧会を見に行きました。

 今回の訪問に当たっては、それぞれの国の苦難の歴史に思いを致し、それぞれの文化に対する理解を深め、我が国とこれら三国との相互理解と友好関係の増進に尽くしたいと思っています。

 研究を通じてリンネの業績から学んだことについての質問ですが、お答えが適切ではないかもしれませんが、分類学の研究を通じて標本を保管することの重要性を学んだということがあります。動植物それぞれの命名規約に、同一種に複数の学名が付けられている場合、古い方の学名を採用することが規定されています。その関係から古い学名を調べるに当たり、文政十一年(西暦千八百二十八年)に採集された標本を調べましたが、そのように長く保管された古い標本でも色彩の特徴が確認できました。これはリンネの標本がロンドン・リンネ協会に大切に保管されているように、欧米の博物館が研究に役立てるために、標本を大切に保管してきたからです。今日、日本の博物館も標本の保管に関して十分な配慮がなされるようになりましたが、かつては博物館は教育機関としての役割のみが強調され、標本は展示のために利用されていました。国立科学博物館も明治十年に教育博物館として建てられ、標本を含む教育機材が展示されていました。当時、産業の振興は国にとって大変大切なことでしたが、もう少し自然史や分類学に関心が寄せられていれば、例えば田沢湖のクニマスのような絶滅を防げた動物もいたのではないかと残念に思っています。

皇后陛下 カール・フォン・リンネの生誕三百年に当たり、リンネ協会の所在する英国と、リンネの母国であるスウェーデンの両国からご招待を頂きました。陛下の長年にわたる生物学ご研究と深くかかわるこの度のご訪問であり、うれしく同行させていただきます。

 また、この度、この二か国と共に、バルト海に面する三つの共和国、エストニア、ラトビア、リトアニアからも招待を頂き、訪問いたすこととなりました。平成三年、この三か国の独立回復の報に接したときのことは今も記憶に新しく、この度の訪問により、それぞれの国の人々と接する機会を持つことを心より楽しみにしております。

 スウェーデンの博物学者リンネにつき、私は深い知識を持つ者ではございませんが、分類学をご研究の陛下との生活の中で、リンネは全く無縁の人ではありませんでした。まだ婚約したばかりのころ、陛下は時々私にご専門の魚類につきお話しをしてくださいましたが、そのようなとき、ティラピア・モサンビカ、オクシエレオトリス・マルモラータというように、いつも正確に個体の名を二名法でおっしゃっており、私はびっくりし、大変なところにお嫁に来ることになったと少し心配いたしました。

 ここ五六年、皇居東御苑の木や草には、庭園課の人たちの手で名札が付けられるようになりましたが、外国の来園者も多いことと、その一つ一つに陛下のご希望で日本名に加え学名も付されています。リンネの考案を基にしてできた命名規約により、世界中の人が共通の名前で自然界のものを名指せることを、すばらしいことと思います。

 エストニア、ラトビア、リトアニアについての知識は、長いこと、この地域の幾つかの地名を、ハンザ同盟と関連して知るという程のものでしたが、昭和六十年に「バルト海のほとりにて」という一冊の書籍を贈られ、一口にバルト三国と呼ばれながら、それぞれ固有の民族から成り、固有の言語を持つこれらの国々が、二つの大戦の間(はざま)の時代を独立国として自由と繁栄に向かって歩む姿と、その後に経ることになる、長い苦しみの歴史に触れる機会を得ました。

 これら三か国の独立は、平成三年のことでしたから、私がこの本を読んでから、約六年後のことになります。独立後程なく、リトアニアのランズベルギス最高会議議長が来日され、かつて本の中で知るようになったこれらの国々が、そのとき急に現実味を帯びて感じられたことを記憶いたします。この度、短時日とはいえ、この三か国を訪問することができますことは大きな喜びであり、この機会にこれらの国の人々が、過去に味わった多くの苦しみを少しでも理解するよう努めるとともに、苦しみ多い時代にも、人々が決して捨てることの無かった民族の誇りと、それを支えたであろうこの地域の伝承文化への理解を深めたいと思います。

 今回最後の訪問地英国では、リンネ協会の行事に臨むほか、思いがけず世界最初の小児ホスピスであるへレン・ハウスの創立二十五周年の行事にお招きを頂き、参列することとなりました。二年前、このハウスの数名の患者方が、両親やスタッフに付き添われて来日された折にお会いしておりました。ちょうど施設の二十五周年の年に、陛下とご一緒に英国におりますという偶然があって、お招きに応じることが可能となりました。二年前に出会った子どもたちや付添いの方たち、そしてこのホスピスの創立者であるシスター・フランセスのお顔を懐かしく思い出しつつ、再会の日を待っております。

 ヘレン・ハウスと、その後に加えられたダグラス・ハウスを訪問し、力を尽くして今を生きる子どもたちと、その子らに寄り添う方たちにお会いするこの日は、私にとっても生きるということ、友として人が人に寄り添うということにつき、深く考える一日になるのではないかと思っております。

問二 両陛下に伺います。十日間で五か国を巡る今回のご訪問は移動も多く、過密な日程での長旅となります。陛下は治療を続けられ、皇后さまは先月、精神的なお疲れからとみられる腸壁の出血などにより静養を取られるなど、体調に不安を抱えての旅路となりますが、今回皇后さまが体調を崩されたきっかけやその後の経過を陛下はどのように見守られ、皇后さまご自身はどのように向き合われたのか、ご訪問にあたっての現在のご体調とあわせてお聞かせください。

天皇陛下 皇后は、長年にわたって様々な苦労を乗り越え、私を支え、国内外の多くの公務を果たしてきました。四年前の私の手術のときには病院に泊まって看病を手伝い、入院中も毎日のように見舞いに訪れ、記帳簿を私に見せて国民の快癒を願う気持ちを伝えてくれました。私の健康面での心配に加え、皇太子妃の健康や、前置胎盤で懐妊中の秋篠宮妃のことを気遣うなど、今思うと、随分心配の多い日々を送ってきたのだと思います。この度の病気は、予兆無しに突然に起こり、心配しましたが、幸い病気は週末や祝日も含めて二回にわたる短期間の休養で、公務を休むことなく、健康を回復したことを喜んでいます。

 今回の外国訪問は、それぞれの国での滞在が短く、日程も忙しいものになっていますが、二人とも健康に気を付けながら、訪問の目的を果たしたいと思っています。

皇后陛下 体の変調を公表することには、常にためらいを感じますが、理由を伏せて休むことで実際以上に悪いような憶測を呼ぶようではいけないと思い、この度も発表に同意いたしました。

 心配をおかけいたしましたが、良い経過をたどり、今は元気にしております。医師が発表いたしましたように、この度の病気は痛みや苦痛を伴うものではなく、休養と投薬により軽快するとのことで、三月末の九日間ほどを静養に充てさせていただきました。

 過去に体験したことのない病気で、症状のとれるまで少し不安もありましたが、十分な静養のときを頂き、元の健康に戻ることができました。この間、大勢の方々からお見舞いと励ましを頂きましたことに対し、厚くお礼を申し上げます。

 今回の外国訪問は、五か国を回る忙しいものとなりそうですが、何よりも陛下がご旅行の全行程にわたり、お元気でいらっしゃいますよう念じております。私も陛下のお側で支障なく務めを果たせますよう、体に気を付けて、お供させていただきます。

問三 両陛下に伺います。両陛下は、皇太子同妃時代から多くの国々を訪問し友好を深められ、即位後も外国訪問や外国賓客を迎えることで年輪を重ねられました。外国訪問を含めた国際交流について、次代を担う皇太子ご夫妻に今後どのようなことを期待されますでしょうか。

天皇陛下 私どもが結婚したころはまだ国事行為の臨時代行に関する法律が無く、天皇が皇太子に国事行為を委任して、外国を訪問することはできませんでした。そのようなわけで、元首である国賓を我が国にお迎えすると、しばらく後に、私が昭和天皇の名代として、それぞれの国を皇太子妃と共に答訪することになっていました。

 私どもの結婚の翌年、昭和三十五年九月の日米修好条約百周年に当たっての米国訪問は、皇太子の立場で皇太子妃と共にこれを行いましたが、二か月後の十一月に、皇太子妃と共にイラン、エチオピア、インド、ネパールを、それぞれの元首の我が国訪問への答礼として行ったときは、昭和天皇の名代として、これを行いました。この四か国訪問が昭和の時代に私が昭和天皇の名代として皇太子妃と共に各国を訪問した始まりでした。この名代としての外国訪問は、国事行為の臨時代行に関する法律が昭和三十九年に施行された後も続けられ、昭和四十六年になってようやく昭和天皇、香淳皇后のヨーロッパ諸国御訪問が実現する運びになりました。このご訪問は昭和天皇、香淳皇后にとってもお喜びだったと思いますが、私どもにとっても喜ばしいことでした。天皇の名代ということは、相手国にそれに準ずる接遇を求めることになり、私には相手国に礼を欠くように思われ、心の重いことでした。各国とも寛容に日本政府の申出を受け入れ、私どもを温かく迎えてくれたことに、深く感謝しています。

 昭和五十年の昭和天皇、香淳皇后の米国ご訪問以降は、ご高齢の関係で、再び私が名代として皇太子妃と共に外国を訪問するようになりました。その後国際間の交流が盛んになるにつれ、国賓の数も増え、極力答礼に努めたものの、そのすべてに答礼を果たすことが不可能な状態の中で昭和の終わりを迎えました。

 平成に入ってからは、私どもの外国訪問は国賓に対する答訪という形ではなく、政府が訪問国を検討し、決定するということになっています。

 私どもの外国訪問を振り返ってみますと、国賓に対する名代としての答訪という立場から多くの国々を訪問する機会に恵まれたことは、国内の行事も同時に行い、特に皇后は三人の子どもの育児も行いながらのことで、大変なことであったと思いますが、私どもにとっては、多くの経験を得る機会となり、幸せなことであったと思います。それと同時に名代という立場が各国から受け入れられるように、自分自身を厳しく律してきたつもりで、このような理由から、私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません。

 現在、皇太子夫妻は名代の立場で外国を訪問することはありませんから、皇太子夫妻の立場で、本人、政府、そして国民が望ましいと考える在り方で、外国訪問を含めた国際交流に携わっていくことができると思います。選択肢が広いだけに、一層的確な判断が求められてくると思われますが、国際交流に関心と意欲を持っていることを聞いていますので、関係者の意見を徴し、二人でよく考えて進めていくことを願っています。

皇后陛下 私が御所に上がりましたのは、昭和三十四年のことで、そのころには既に戦後の国交回復により日本に各国の大公使が滞在されており、結婚後そうした方たちとの接触のあろうことは知らされておりましたが、海外の訪問については何も伺っておらず、嫁いで数か月後、急に翌年五月訪米の案がもたらされたときには、本当に驚き、困惑いたしました。そのとき私は皇太子を身ごもっており、出産は三月初旬と言われておりました。私も同行を求められており、もし五月の旅行となりますと、母乳保育は二か月足らずで打ち切らねばならず、またホノルルを含め、米国の八都市を二週間で訪問ということで、産後間もない体がこれに耐えられず、皆様にご迷惑をかけることにならないか不安でもございました。自分の申出が勝手なものではないかと随分思案いたしましたが、当時の東宮大夫と参与に話し理解を求め、米国側も寛容に訪問時期を九月に延ばしてくれ、ほっといたしました。

 このときに始まり、これまで陛下とご一緒に五十二か国を公式に訪問してまいりましたが、そのうち十六か国を訪問するころまでは、出産があったり、子どもが小さかったりで、国内の公務の間を縫うようにして執り行われるこのような旅は、もう自分には続けられないのではないかと心細く思ったこともありました。ともあれ、陛下とご一緒に一回一回経験を重ね、その都度経験したことに思いを巡らせ、また心を込めて次の旅に臨むということを繰り返してまいりました。これらの訪問を通じ、私の自国への認識と、言葉では表し得ない日本への愛情が深まり、この気持ちを基盤として、他の国の人々の母国に対する愛情を推し測っていくようになったと思います。今、どの旅も、させていただけたことを本当に幸せであったと思っております。

 外国訪問を含む今後の国際交流につき、皇太子夫妻に何を期待するかという質問ですが、この問題については、きっと皇太子や皇太子妃にこのようにしたいという希望や思い描いている交流の形があると思いますので、それが一番大切なことであり、それに先んじて私の期待や希望を述べることは控えます。

 今は皇太子と皇太子妃が、これまでに積んだ経験をいかし、二人して様々な面で皇室の良い未来を築いていってくれることを信じ、期待しているとのみ申すにとどめ、これからの二人を見守っていきたいと思います。

天皇皇后両陛下の外国ご訪問前の記者会見の内容
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by unkotamezou | 2007-05-14 17:00 | 皇室