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長島茂雄 二十七 監督退任「自分への叱咤」
監督退任「自分への叱咤」

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長嶋の監督退任は一つの事件だった。記者会見には多くの記者が詰めかけた(1980年10月21日)

 伊東キャンプで若手を鍛え上げて臨んだ1980年のシーズンこそ勝負の年でした。しかし、野手はベテラン中心でオーダーを組まざるを得ず、過渡期でした。難しい年だったんです。

 《巨人は投打がかみ合わず、33試合を1点差負けで落とした。かろうじて勝率5割を確保したものの、3位でシーズンを終えた。チーム打率はセ・リーグ最下位の2割4分3厘。湿った打線を抱えたまま、3年連続でVを逃すことが確実となったシーズン途中から、監督の責任を問う声が浮上し、10月21日、長嶋の退任と、藤田元司の新監督就任が発表された》

 退任。マスコミは解任という言葉を使いましたが、しかたがないですね。巨人軍というのは常に優勝を宿命づけられたチームですから。それができなかったんだから、任を解かれても、いいわけはできないでしょうね。ファンのみなさんは、ずいぶんと心配、同情してくださったんですが、だれを恨むこともありません。

 こういうことですよ。現役時代から、私にはライバルというものがありませんでした。いいえ、オレほどのバッターはいないという意味ではないんです。あるピッチャーに連続して抑えこまれても、首位打者争いで競い合って敗れても、くそっ、という気持ちは相手に向かうものではないのです。打てない自分に怒りが向くんです。何がなんでも今度こそ打たなくちゃいけないと、自分への叱咤(しった)になる。退任もそう受け止めました。

 ペナントが遠のいたシーズン途中から、大胆に若手を起用してみました。山倉(和博)を捕手に据えて、サードにはキヨシ(中畑清)、セカンドに篠塚(利夫)、外野に松本(匡史)。伊東キャンプで涙の汗を流した連中ですよ。彼らを次のシーズンからチームの中心にしようと考えていましたから。

 結局、彼らを次の年から藤田さんに託すことになったんですが、見事に花開きました。うれしかったですよ。巨人のために、間違えてなかったと。

 《80年のシーズンオフ、長嶋退任を追うように、王貞治が現役引退を表明。通算本塁打は868本。南海時代以来、強打でパ・リーグ人気を支えた野村克也(西武)もバットを置いた。通算本塁打657本。一方で、新監督・藤田が同年秋のドラフトで引き当てた原辰徳(東海大)が巨人に入団。新旧スター交代の節目の年でもあった。また同年夏に開かれたモスクワ五輪は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本、米国、西ドイツなど西側を中心にした国々がボイコットし、参加国は81か国にとどまった。絶頂期にあった柔道の山下泰裕は、涙を流して参加を訴えたが、かなわなかった》

 浪人中は、監督になる前から、選手を辞めたらやろう、と考えていたことをいろいろとやりました。スポーツイベント、ボランティア、勉強になりましたね。陸上競技のカール・ルイスとか、世界中のトップアスリートたちと会えたことも大きな財産ですね。オリンピックもロサンゼルス、ソウル、バルセロナと3大会を取材しました。その中で、選手たちが4年間いかに目標に向かい、緊張を持続するのか、考えさせられました。私は、12年間もプロ野球から遠ざかることになりましたけれど。(敬称略)

(2006年7月17日 読売新聞)
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by unkotamezou | 2006-07-17 23:31 | 冒險 競技 藝能 娯楽