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旧ソ連に抑留の男性「恩人」小隊長と五十九年ぶり再会
「恩人」小隊長と再会 59年ぶり 旧ソ連に抑留・新潟の男性

 太平洋戦争後、旧満州(中国東北部)で旧ソ連に抑留された新潟県佐渡市の元日本兵、自営業小保(こぼ)茂さん(80)が15日、極寒の収容所内でソ連兵から部下約20人を守ってくれた当時の小隊長、福岡県筑後市の吉山英雄さん(90)と59年ぶりに同市で再会した。「恩返しがしたい」と探し続け、記憶にあった九州なまりなどから本紙の今月1日付読者投稿欄「こだま」で情報提供を呼び掛け、記事を目にした親せきから連絡を受けた。

■「礼言いたい」と本紙に投書 筑後の吉山さんと判明

 小保さんと吉山さんは、旧満州に駐屯した日本陸軍部隊の関東軍13044部隊に所属。終戦直後、旧ソ連カザフスタンのウスチカメノゴルスク収容所に連行された。冬は氷点下40度にもなり靴下は凍って足に張り付くほど。採石作業などの過酷な労働を強いられた。食事はミカンの缶詰に注がれたえん麦のかゆ。栄養不足で仲間は次々に減り、埋葬する際「いつかは自分もこうなる」と覚悟を決めていたという。

 2年目の冬、60キロあった小保さんの体重は40キロに。衰弱した部下を見て、吉山さんは作業を中止させ、体を温めるよう指示した。気温は氷点下39度。仕事を続けさせようとする監視役のソ連兵のすきを見て銃を取り上げ、怒鳴った。「この部下を無事日本へ帰すのがおれの使命なんだ」。吉山さんは階級が高かったこともあり、特段の罰は受けなかったのが幸いだった。

 抑留者の引き揚げが始まった翌年の1947年、小保さんら下級兵士が先に帰国。翌年帰国することになる吉山さんとはそれが最後になった。

 「小隊長」としか呼ぶことができなかったため、小保さんは吉山さんの名前も知らず「准尉で九州なまり」という記憶しかなかったが、今年に入り国会議員の口添えで厚生労働省から当時の軍名簿を入手。本紙に投稿した。

 筑後市の料亭で再会した小保さんは「私が今幸せに生きているのはあなたのおかげです」と59年間考えていた感謝の言葉を述べた。そして2人が口をそろえたのは「収容所は生き地獄だった」。吉山さんは「乗り越えるには、みんなが一丸となるしかなかったですからね」と、しっかりと手を握り合った。

■「こだま」掲載の小保さんの投書

 私は終戦時旧ソ連に抑留され、極寒の地カザフスタン・ウスチカメノゴルスク収容所で氷点下40度まで採石作業の強制労働をさせられました。

 2年目の冬のこと、隊員20人の衰弱がひどいのを見かね、小隊長が「私が責任をとるから、作業せずに皆、肩を組んで輪になり、凍傷にならぬよう動いていろ」。岩の上にいた監視兵が小隊長に詰め寄りました。「氷点下40度まであと1度あるではないか!」。小隊長はソ連兵の銃を取り上げ「この部下20人を無事日本に帰すことがおれの使命なのだ!」。

 小隊長は連行され、引き揚げの時には、お姿は見当たりませんでした。おかげで無事、日本の土を踏めたことを感謝するこの60年間です。最近になって、関東軍の渡邊中隊(第1中隊、松隊)の小隊長だった吉山英雄准尉と判明しました。九州のどこかのご出身です。再会して、ご恩返しすることを強く願っております。お心あたりの方はご連絡ください。

2006年07月16日00時06分
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by unkotamezou | 2006-07-16 00:06 | 歴史 傳統 文化