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長島茂雄 「巨人」決め手は佐倉の母
「巨人」決め手は佐倉の母

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巨人軍入団発表直後に、母親のちよさんと、千葉県佐倉市臼井の実家の庭で(1957年12月10日撮影)

 立教時代最後のシーズンの、まさに最後の試合で、通算8号のホームランを打ったのですが、さらに余禄(よろく)があったんです。敬遠された第3打席のあと、八回裏にまわってきた最後の打席でぼてぼてのヒットが出て、3打数2安打で打率を上げ、逆転で2度目の首位打者(3割3分3厘)を獲得しました。

 佐倉の実家で、NHKのラジオにかじりついて試合の実況を聞いていた母は、「よくやった、茂雄」と、合宿所に電話を寄こして喜んでくれました。これで「(東京)六大学で一番の選手になる」という親父(おやじ)との約束のひとつを果たしたわけですよね。

 《長嶋が東京六大学本塁打記録を更新した1957年(昭和32年)11月3日午後のほぼ同時刻、旧ソ連のモスクワ放送臨時ニュースは、犬を乗せた人工衛星・スプートニク2号の打ち上げに成功した、と伝えた。前月4日の同1号打ち上げから1か月。この夜、ラジオ、テレビでは、「スプートニク2号」と「長嶋8号本塁打」という二つのビッグニュースが駆けめぐった》

 さあ、こうなると、いったい長嶋はどこのプロ球団へ入るのかで、マスコミは大騒ぎになって、取材攻勢が始まりました。

 そのころはドラフト制度もありませんでしたからね、ホームランを量産するようになった3年生から、各球団の「ぜひ、うちに」というスカウトが来るようになりました。野球部のマネジャーを通じての話もありましたが、球団オーナーと直接、お会いする機会もありました。

 広島の松田(恒次)オーナーとは3度お会いしましたが、「57年夏に、広島市民球場ができる。君が入団すれば、市民こぞって応援するから、うちに来てほしい」と、熱心に誘われました。契約金2800万円でどうだというんです。大卒のサラリーマンの平均初任給が、たしか1万3800円ぐらいの時代ですから、大変な額ですよね。

 大映の永田(雅一)さん、東映の大川(博)さん、阪急の小林(米三)さんともお会いしてくどかれました。迷いましたね。金銭ではないんです。当時の球団オーナーたちからは、野球が好きでたまらない、という情熱が伝わってくるんですよ。

 大学最後のリーグ戦が幕を閉じるころには、仲がよかった「立教三羽がらす」のうち、本屋敷(錦吾)は地元の阪急に、杉浦(忠)は南海に、それぞれ入団の意思を固めていました。私も、杉浦と一緒に南海に行くことが決まっていたのに裏切ったんじゃないか、という話がありますけれど、そんなことはないんです。

 立教の2年先輩で南海入りされた大沢(啓二・のちにロッテ、日本ハムで監督)さんには、いろいろと面倒をみていただいて、「一緒に南海でやろう」と誘われていましたが、決めていたわけではありませんでした。

 結局、巨人入りを決断しました。ジャイアンツのチームカラーが自分に合うんじゃないかと思ったのも理由の一つですが、決め手となったのは、母親の気持ちでした。

 「父さんも亡くなって、私は千葉の佐倉に住んでいる。お願いだから遠い大阪へ行ってしまわないで。近くの在京球団へ入ってほしい」と随分泣きつかれましたからね。

 《57年12月7日、巨人入団が正式発表される。「巨人・サード・長嶋」がこの日、誕生した》(敬称略)

2006年6月21日 読売新聞
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by unkotamezou | 2006-06-21 18:33 | 冒險 競技 藝能 娯楽