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皇后さま七十一歳 誕生日 ご回答全文
皇后さま71歳誕生日で祝賀 皇族、三権の長ら

 皇后さまは二十日、七十一歳の誕生日を迎えられた。誕生日にあたって、宮内記者会の質問に文書で回答を寄せられた。結婚される長女の紀宮さまへ贈る言葉について「その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません」と母親としての思いを述べられた。

 宮内庁によると、皇后さまは、紀宮さまとのご一緒の日々を大切に過ごされ、ご結婚の準備に細やかに心を砕かれているという。

≪ご回答(全文)≫

■戦争の記憶消し去ること出来ない

--戦後六十年の節目にあたる今年、激戦地サイパンを慰霊訪問されました。戦争の記憶とどのように向き合い、継承していきたいとお考えですか

 陛下は戦後四十九年の年に硫黄島で、五十年に広島、長崎、沖縄、東京で、戦没者の慰霊を行われましたが、その当時から、南太平洋の島々で戦時下に亡くなられた人々のことを、深くお心になさっていらっしゃいました。外地のことであり、なかなか実現に至りませんでしたが、戦後六十年の今年、サイパン訪問への道が開かれ、年来の希望をお果たしになりました。

 サイパン陥落は、陛下が初等科五年生の時であり、その翌年に戦争が終りました。私は陛下の一年下で、この頃の一歳の違いは大きく、陛下がかなり詳しく当時の南方の様子を記憶していらっしゃるのに対し、私はラバウル、パラオ、ペリリュウ等の地名や、南洋庁、制空権、玉砕等、わずかな言葉を覚えているに過ぎません。それでもサイパンが落ちた時の、周囲の大人たちの動揺は今も記憶にあり、恐らく陛下や私の世代が、当時戦争の報道に触れていた者の中で、最年少の層に当たるのではないかと思います。そのようなことから、私にとり戦争の記憶は、真向かわぬまでも消し去ることの出来ないものであり、戦争をより深く体験した年上の方々が次第に少なくなられるにつれ、続く私どもの世代が、戦争と平和につき、更に考えを深めていかなければいけないとの思いを深くしています。

 戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ、今年八月十五日の終戦記念日の式典は、この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も、一年一年年を加え、兄弟姉妹の世代ですら、もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います。

 経験の継承ということについては、戦争のことに限らず、だれもが自分の経験を身近な人に伝え、また、家族や社会にとって大切と思われる記憶についても、これを次世代に譲り渡していくことが大事だと考えています。今年の夏、陛下と清子と共に、満蒙開拓の引揚者が戦後那須の原野を開いて作った千振開拓地を訪ねた時には、ちょうど那須御用邸に秋篠宮と長女の眞子も来ており、戦中戦後のことに少しでも触れてほしく、同道いたしました。眞子は中学二年生で、まだ少し早いかと思いましたが、これ以前に母方の祖母で、自身、幼時に引揚げを経験した川嶋和代さんから、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を頂いて読んでいたことを知り、誘いました。初期に入植した方たちが、穏やかに遠い日々の経験を語って下さり、眞子がやや緊張して耳を傾けていた様子が、今も目に残っています。

■東宮妃の回復見守っていきたい

 --ご一家のご様子についてとともに、皇室の現状とその将来についてどう感じ、どう願っておられますか

 陛下は、引き続き月一度ホルモン療法を受けていらっしゃいます。少し副作用があり、以前よりお疲れになりやすく、また、発汗がおありになります。また、この療法を始めるにあたり、担当医から筋肉が次第に弱まる可能性も示唆されており、陛下は御手術前と変わらず、今も早朝の散策に加え、御公務で宮殿にいかれる時もできるだけお歩きになっていらっしゃいます。宮殿で行われる認証式は夜分になることが多いのですが、そのような時も、暗い池端の道を、大抵は徒歩でお帰りになります。

 先々週には、東宮が一家して葉山の御用邸に訪ねて来てくれ、うれしく、一緒によい時を過ごしました。雨がちで気の毒でしたが、晴れ間を見て浜にも出、敬宮は楽しそうに砂で遊びました。東宮妃が段々と元気になっている様子で、本当にうれしく思います。

 現在のもつ皇室の問題については、陛下が昨年のお誕生日の会見で詳しくお話しになっており、新たに私がつけ加えることはありません。できるだけ静かな環境をつくり、東宮妃の回復を見守っていきたいと思います。

■嫁ぐ娘へ「何も言えないかもしれません」

--紀宮さまの嫁がれる日が近づきました。三十六年の歩みを振り返り、心に浮かぶことや思いは。どのような言葉を贈られますか

 清子は昭和四十四年四月十八日の夜分、予定より二週間程早く生まれてまいりました。その日の朝、目に映った窓外の若葉が透き通るように美しく、今日は何か特別によいことがあるのかしら、と不思議な気持ちで見入っていたことを思い出します。

 自然のお好きな陛下のお傍で、二人の兄同様、清子も東宮御所の庭で自然に親しみ、その恵みの中で育ちました。小さな蟻や油虫の動きを飽きることなく眺めていたり、ある朝突然庭に出現した、白いフェアリー・リング(妖精の輪と呼ばれるきのこの環状の群生)に喜び、その周りを楽しそうにスキップでまわっていたり、その時々の幼く可愛い姿を懐かしく思います。

 内親王としての生活には、多くの恩恵と共に、相応の困難もあり、清子はその一つ一つに、いつも真面目に対応しておりました。制約をまぬがれぬ生活ではありましたが、自分でこれは可能かもしれないと判断した事には、慎重に、しかしかなり果敢に挑戦し、控え目ながら、闊達に自分独自の生き方を築いてきたように思います。穏やかで、辛抱強く、何事も自分の責任において行い、人をそしることの少ない性格でした。

 今ふり返り、清子が内親王としての役割を果たし終えることの出来た陰に、公務を持つ私を補い、その不在の折には親代りとなり、又は若い姉のようにして清子を支えてくれた、大勢の人々の存在があったことを思わずにはいられません。私にとっても、その一人一人が懐かしい御用掛や出仕の人々、更に清子の成長を見守り、力を貸して下さった多くの方々に心からお礼を申し上げたいと思います。

 清子の嫁ぐ日が近づくこの頃、子どもたちでにぎやかだった東宮御所の過去の日々が、さまざまに思い起こされます。

 浩宮(東宮)は優しく、よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節もあります。年齢の割に若く見える、と浩宮が言ってくれた夜、「本当は年相応だからね」と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません。そして清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした。これは現在も変わらず、陛下は清子のことをお話になる時、「うちのドンマインさんは…」などとおっしゃることもあります。あののどかな「ドンマーイン」を、これからどれ程懐かしく思うことでしょう。質問にあった「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません。

10/20 08:46
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by unkotamezou | 2005-10-20 08:46 | 皇室