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戦後六十年 サイパン陥落(上)昭和十九年
【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 サイパン陥落(上)昭和19年

月光照らす地獄

 「ただただ私は、兵隊さんたちがかわいそうで、助けてあげたかったのです」

 菅野静子(79)=神奈川県逗子市=は今も、毎年六月になると、サイパン戦の三週間を思わずにはいられない。

 昭和十九年当時、「南洋の東京」といわれる繁栄を誇ったガラパンで、水産会社に勤める十八歳の少女だった。家族は近くのテニアン島に住んでいた。米軍上陸翌日の六月十六日から、七月七日の玉砕まで、菅野は民間人が入れない陸軍の野戦病院に行き、志願して看護婦となった。「病院」といっても、施設があるわけではない。すり鉢状の盆地に、負傷兵が並べられているだけ。「地獄というものがあれば、こんな所だろうと思ったものです」。菅野は当時を振り返った。

◆◇◆

 六月十一日に始まった米軍の空襲によって、ガラパンには負傷者があふれていた。菅野は職場に運び込まれる負傷兵を前に、見よう見まねで傷口にほぐしたたばこをあて、引っ張り出した下着のゴムで止血した。山の洞窟(どうくつ)に避難した後も、負傷者の手当てに尽くしたが、十五日に米軍の上陸が始まると、水源地ドンニーにあるという野戦病院に向かった。

 南洋特有の明るい新月が、野球場のような盆地に並ぶ重傷兵を浮かび上がらせていた。「看護婦を志願してきました」。自然に言葉が出た。

 「ありがたいが、早く山を下りなさい」。周囲から「隊長殿」と呼ばれる中年の院長と押し問答になり、菅野はせきを切ったように話していた。

 「家族はみんな死んでしまいました。何でもしますから、ここで働かせてください」

 少佐の襟章を付けた隊長は菅野の話を聞き終わると、自分の赤十字の腕章を外し、菅野の細い腕に巻きつけた。

 「あんたはこの野戦病院の特志看護婦だ。ただしここは軍隊だ。苦しいこともあるけれど、我慢してしっかりやるんだよ」

 さっそく三人の軍医、七人の衛生兵と手術を手伝った。手負いの兵士は三千人以上。懐中電灯で手元を照らしながら、ざくろのように割れた傷口に、食い込む黒い破片を取り除く。うみと血で固まった包帯を替え、傷口に群がるウジを取り除いた。

 しかし破傷風が蔓延(まんえん)し、日を追うごとに死体を捨てる作業が増える。頭はぼやけ、手だけが機械のように動く。不眠不休の手当ての合間、水をくみに現場を離れると、空気がうまかった。

◆◇◆

 米軍の攻撃は激しさを増した。六月二十六日夜、ドンニー最後の食糧が配られた。乾パン一袋と缶詰一つ。手榴弾(しゅりゅうだん)は七人に一つずつしか渡らなかった。サイパン守備軍の司令部から、野戦病院閉鎖命令が出ていた。患者を戦闘に巻き込まないためではあったが、それは同時に重症患者の自決も意味する。隊長が強い口調で言った。

 「命令により、本野戦病院はマタンシャに移動する。気の毒だが、歩行できない者は残す。日本軍人として恥じない最期を、遂げてくれ」。傷ついた若い将校がかすかに声を出した。「看護婦さん、『九段の母』…知ってるか」。老母が靖国神社に戦死した息子に会いに行く。そんな情景を描いた歌だ。

 小さな声で四番まで歌うと、重傷兵から「おれたちは、靖国神社に行くんだな」「そうだ靖国で会おう」の声が上がった。間を置いて隊長が、小さな声で出発を告げ、一行は歩き出した。菅野も続いた。「看護婦さん、ありがとう」「隊長殿、軍医殿、看護婦さん、さようなら」「看護婦さん、死んではダメだぞ」

 菅野は振り返らず、走った。背中越しにバンバンと炸裂(さくれつ)音が続いた。「お母さん」「タケボー」。家族の名を呼ぶ声。頭にカッと血が上り、足がもつれた。

◆◇◆

 菅野は七月六日、マタンシャの野戦病院を出るよう命令され、いったんは出発したが、七日明け方に再び病院に戻った。

 「おれの気持ちが分からんのか。早く出ろ。敵が来たらこれを持っていけ」

 隊長は白いハンカチを押し付けた。しかし壕(ごう)の外にはもう、米兵が迫っている。飛び出す兵士は撃たれた。

 日ごろから「日本の金鵄(きんし)勲章を、みんな看護婦にやりたいくらいだ」といたわってくれた隊長は、「自分は最後まで、金鵄勲章をやれなかったことを残念に思って死ぬ。君だけは生きて、野戦病院はここで全滅し尽くしたと、友軍に伝えてくれ」と言い、拳銃をのどにあてた。倒れかかる若い軍曹の体重を感じながら、菅野は手榴弾を握った。米兵の姿が大きくなる。「死ぬのは怖くなかったんですが、自分がここで死んだ、と誰も言ってくれないのがとても寂しかった」。手榴弾の安全ピンを抜いた。

◆◇◆

 目覚めたとき、菅野は米軍の前線司令部のベッドの中だった。外国人の姿に声も出ない。若い将校が日本語で「あなたは助かった」と、野戦病院唯一の生き残りであることを告げた。重傷を負っていたが、懇願してその日のうちに収容キャンプに移された。

 トラックに寝たまま、七夕の月を眺めた。サトウキビ畑に数珠つなぎに横たわる民間人の遺体。島北部に近づくと、日本語を話す将校が「海にも、たくさん死んでいます…見ますか」と聞いてきた。将校らが三人がかりでバンザイクリフの際まで運んでくれた。「多分、私があの光景を見た初めての日本人でしょう」

 月光がキラキラと反射する波間に、浮かんでは沈む多くの人影。がけの途中に突き出た木の枝に、服の端切れが引っかかっていた。

 「日本の人はなぜ、こんなに死ぬのでしょうね」

 涙をこぼす将校の言葉を、菅野はうつろな心で聞いていた。月がやけに明るく、国民服姿の大人や子供の顔まで、あまりにはっきりと見えた。=敬称略

(飯塚友子)
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by unkotamezou | 2005-06-26 05:00 | 國防 軍事