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第三十師団 八割戦死、不明に
第30師団 8割戦死、不明に

 ミンダナオ島で見つかった旧日本兵とみられる邦人らが所属していた可能性の高い陸軍第三十師団は「豹(ひよう)師団の名称で知られ、過酷な運命をたどった軍隊」だった。食料がない中で激しい戦闘を強いられ、八割が戦死か行方不明になった。同師団通信隊長を務めた村上一男さん(88)は「終戦を知らずにいまだに戦い続ける将兵らがいても不思議ではない」と語る。

 同師団は昭和十八年六月に編成された「現役兵を主体とする精強師団」。朝鮮半島の平壌に司令部を置き、対ソ戦を目標に厳しい耐寒訓練を続けていたが、南方の戦局悪化に伴い、十九年四月、ミンダナオ島の防衛増強のため動員された。

 ミンダナオ島に上陸したのは同年五月。村上さんは生後三十八日目の長男に別れを告げて出征した。師団の士気は高く、「ニックネームの“豹”のごとく敵軍に大鉄槌(てつつい)を加えられると、誰もが信じて疑わなかった」という。

 しかし同年九月、米軍艦載機による大空襲に見舞われ、友軍機の応援もないまま大打撃をこうむった。十月にはレイテ島に米軍が上陸。これを阻止しようと行動したが、輸送船の欠如などにより断念。その後は食料や弾薬の補給もないまま、戦局は刻一刻と悪化した。

 村上さんらを最も苦しめたのが食料問題。米軍との決戦に備えて山奥を転戦したが、原住民らは逃げてしまい、「やむを得ず畑のサツマイモなどをあさり、それもないときはトカゲ、カタツムリ、ヘビなど口に入るものなら何でも食べた」。

 中でも昭和二十年六月、米軍との激戦を終えて転戦中の師団司令部は前人未到のジャングルに突入。大渓谷に行く手を阻まれ、餓死者らが続出する大惨事となった。

 村上さんは米軍機がパラシュートで落とした短波ラジオにより、八月十五日に終戦を知った。師団長は直ちに米軍への投降を決断したが、師団はバラバラで各連隊に連絡が取れず、戦闘は九月上旬まで続いたという。

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 ■2月 厚労相に嘆願書 豹の会会長

 今年二月、一通の嘆願書が尾辻厚労相あてに出された。

 《彼らは誠にいたわしい不幸な戦友同僚たちであった。心情を察するとまことに悲しい限りであります。何卒一日も早く帰還させてやってください》

 戦友への言い尽くせぬ思いを綴った文章。これを記したのは、ミンダナオ島で生存していたとされる数人が所属していた陸軍第三十師団の生存者でつくる「豹の会」会長を務める市川豪弌(ごういち)さんだ。

 今年一月、市川さんは数人の生存情報を聞いた。「まさか」。そう思った市川さんだったが、詳細な話を聞いているうちに驚きは確信へと変わった。戦友と編纂(へんさん)した檀家(だんか)の記録を繰った。確かに名前が記されていた。

 同じ師団に所属していたが、面識はない市川さん。だが、「言語に絶する地獄絵図」と振り返る戦地でともに戦った戦友を見捨てるわけにはいかなかった。

 翌月、市川さんは嘆願書を提出した。市川さんのほか、師団に所属した二十一人の名前が連ねられた嘆願書。一刻も早く助けたい。そう考えた末、事後了解で戦友たちの名前を借りた。

 それから三カ月、ようやく事態は動いた。「内地に帰ってきたらぜひ会いたい」。市川さんらの努力がようやく花開こうとしている。
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by unkotamezou | 2005-05-27 05:00 | 國防 軍事