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大阪大空襲あす六十年
「生きた証し」犠牲8700人の銘 大阪大空襲あす60年
モニュメント建立へ

 昭和二十年三月十三日夜、米軍大型爆撃機・B29約二百七十機が大阪の空に飛来した。大量の焼夷(しょうい)弾による空爆で死者は四千人に達した。この「第一次大阪大空襲」から十三日で六十年が経過する。繰り返された空襲による大阪府内の犠牲者は計約一万五千人。今も死者の名前の全容は判明していないが、昨年末までに八千六百九十二人の名簿がまとまった。作業を支えたのは二十年にわたり「犠牲者の生きた証し」を探し続けた空襲の体験者と、阪神大震災の経験者の女性二人。そして今年夏、ようやく犠牲者の名前を刻んだモニュメントが建立される。

≪「遺族の会」代表 伊賀孝子さん 20数年に及ぶ名前収集≫

 「大阪戦災傷害者・遺族の会」代表の伊賀孝子さん(73)は、昭和五十八年から空襲被害者の名前の収集を始めた。作業は二十年以上に及んだ。

 伊賀さんは六十年前、女学校一年生で、当時住んでいた大阪市浪速区で空襲に遭遇。自宅から逃げるため家族四人で家を出ようとした際に焼夷弾が直撃した。衝撃で投げ出され、顔や腕、足に大やけどを負った。母の大島志よさん=当時(49)=は胸に焼夷弾が直撃して即死。弟の三郎さん=同(8つ)=は大やけどのため三日後に死亡した。

 伊賀さんが覚えているのは、真夜中なのに夕焼けのような真っ赤な光景。焼夷弾から出た油が燃え上がり、道に立ち上がるいくつもの火柱を避けて逃げた。周囲の家もほとんどが焼けた。しばらくは燃え落ちた家で家族の遺体を泣きながら荼毘(だび)に付す光景があちこちでみられたという。

 結婚して子育てが一段落し、あの空襲でなぜ自分が「生かされた」かを自問。命だけでなく名前も失い、振り返られない人たちの名前を集める作業を始めた。

 昭和五十八年ごろは行政による実態把握はまったく行われていなかった。遺体が仮埋葬された公園や寺に足を運び、墓碑銘を手で書き留めたり、寺に残った名簿を見せてもらううち、遺族から連絡がくるようになった。

 やがて大阪市環境事業局に引き取り手のない遺体を埋葬した名簿が残っていることが判明。二十年かけて約六千人分の死没者の名前が集まった。

 伊賀さんは「一万五千という数字だけで死者が語られるのに耐えられなかった。空襲の前は当たり前の人生を歩んでいた人たちの生きた証しをせめて名前を掘り起こすことで示したかった」と話している。

≪名簿編纂担当 佐々木和子さん 死没者2000人新たに発掘≫

 一昨年から大阪国際平和センターが、「大阪空襲死没者名簿」編纂(へんさん)事業をスタートさせた。中心になったのは関西大学や桃山学院大学で非常勤講師を務める佐々木和子さん(52)。佐々木さんは芦屋市在住で阪神大震災の体験者だ。

 近代史が専門の佐々木さんは平成十三年から兵庫県がはじめた震災資料収集事業に参加。避難所や仮設住宅の生活情報のチラシ、ボランティアの日記など生活にかかわるあらゆる資料を集めた。

 名簿編纂にかかわる調査では、死没者に関連する手を付けられていない資料があった。大阪市が昭和二十三年ごろから仮埋葬された死没者を改葬した「仮埋葬戦災者改葬事業」を行っており、この資料が同市の公文書館に残っていることが判明。死没者の名前が約一万二千人分あった。これらの資料を伊賀さんの集めた名簿と合わせ重複部分が約一万人。戦後約六十年を経て新たに二千人の名前が発掘された。

 さらに遺族らからの申し出で七百人ほどの死没者も明らかになった。中には大阪市浪速区で一家五人が全滅し、ずっと知られていなかったケースもあった。この一家は浪速区桜川ですし店を経営した一家。評判の店だったが死没者としては知られていなかった。

 佐々木さんは「戦争は根こそぎ地域を破壊し人の名前さえ消し去る。残るのは断片だけだが、それさえも消えていく。せめて断片を保存し、後世に伝えるのは私たちの責任」と振り返った。

■大阪空襲

 第2次大戦末期の昭和19年12月19日から終戦前日の20年8月14日まで約50回に及んだ米軍による大阪府内の空爆。犠牲者は死者1万2620人、行方不明者2173人、被災家屋は34万戸に上り、空襲罹災者は120万人を超えたとされる。このうち20年3月13-14日、6月1日などの計8回は「大空襲」と呼ばれている。
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by unkotamezou | 2005-03-12 17:55 | 歴史 傳統 文化