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昭和天皇を護った二人のキリスト者(上)
昭和天皇を護った二人のキリスト者(上)

 占領軍司令部の中でフェラーズはただ一人、昭和天皇を戦犯裁判から護らねばならないと考えていた。


1.「ミチ・カワイという女性を探して欲しい」

 昭和20(1945)年8月30日、厚木飛行場に着陸した飛行機から、マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降りた。続く幕僚たちの中に49歳のボナー・フェラーズ准将がいた。

 一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに投宿した。フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイという女性を探して欲しい」と頼んだ。すると意外なことに、支配人の中山武夫が「ミチ・カワイ」を知っているという。中山は以前、商社の米国駐在員としてニューヨークに長く暮らしたことがあり、その英語力を買われて、占領軍の応接役のマネジャーとして雇われ、今日が出社初日だった。

 不思議な縁に驚きながら「ミチ・カワイとはどういう知り合いかね」とフェラーズが尋ねると、中山は「十年ほど前に河井先生がニューヨークで講演をなさった時に、私の女房がお世話をさせていただきました」と答えた。河井は無事で、恵泉女学園を経営しているという。

 フェラーズが早速、手紙を河井あてに届けさせたのは9月3日。この日はちょうど恵泉女学園の2学期の始業式で、河井は学校にいた。まるで天が後押ししているようなとんとん拍子である。河井はすぐに英文の返事をよこした。
 あの恐ろしい戦争の日々、私たちは何度、あなたのことをうわさし合ったことでしょう。あなたがご無事でご活躍の様子を知って、こんなに嬉しいことはありません。

 あなたにお目にかかりたいのはやまやまですが、お願いですから、いましばらく私たちに会いに来ないでください。私たちはいまは、ただただ疲れきって、たとえお目にかかっても、あなたを喜ばせるような姿をお見せできません。[1,p11]

2.「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」

 しかし、フェラーズにとっては、そんな悠長な事を言ってはいられなかった。やがて始まるであろう戦犯裁判で、彼は昭和天皇を護らねばならないと考えていたからだ。それは極めて困難な仕事だった。

 アメリカのある世論調査では、天皇を死刑にすべきだという意見が33%を占め、それを含めて70%が何らかの処分を求めていた。さらにオーストラリアとソ連が強く天皇訴追を主張していた。マッカーサー司令部の中でも、フェラーズ以外の全員が天皇を起訴すべきだと考えていた。

 その中で、ただ一人、フェラーズは「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」と信じていた。家族への手紙では、こう書いたこともある。
 きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦争に巻き込まないように努力した行動をひとつも見いだすことができない。そうではなくて逆にあらゆる施策がまっすぐ戦争に向けてリードされた。[1,p195]
 これは当時の共和党系の人びとの共通認識だったと言える。[a,b,c] しかし、フェラーズはさらに天皇と日本国民の関係について深い洞察を持っており、そこから日本のためにも、またアメリカのためにも天皇を戦争犯罪者として裁くようなことがあってはならない、と考えていた。そのために協力してくれる日本人として河井道を探していたのである。


3.「教育とはまずよき人間になるために学ぶことです」

 河井道とボナー・フェラーズが初めて会ったのは、大正11(1922)年4月、東京においてであった。河井は44歳、フェラーズは26歳。陸軍中尉だったフェラーズは、赴任地のマニラから休暇を利用して、初めて日本を訪れたのだった。

 おりしも桜が満開で、「日本は魅惑的で美しい。神秘に満ちた心温まる国だ」とフェラーズは記している。そこで出会った何人かの日本人の一人に河井道がいた。「ミチ・カワイは傑出している」というのが、彼の印象だった。

 明治24(1891)年、14歳の河井道が札幌のミッションスクール、スミス塾の5年生だった年に、隣接する札幌農学校(現在の北海道大学)の教授を務めていた新渡戸稲造が出張授業に来るようになった。やがて河井は毎週土曜日の夜に新渡戸の自宅に食事に呼ばれ、その後、新渡戸が英語で口述する日記を筆記するようになった。河井は新渡戸を終世の師と仰ぐ。新渡戸はよくこう説いた。
 あなた方は良妻賢母となる前に、一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。[1,p40]
 明治31(1898)年、病気療養のために妻の故国・米国に渡る新渡戸に同道する形で、21歳の河井はアメリカに渡り、奨学金を得て、ブリンマー女子大に学んだ。帰国後、女子英学塾(現在の津田塾大学)の教授となり、英語、歴史、購読を受け持った。同時に、日本YWCAの設立に奔走し、初代総幹事となった。その関係で、32歳から1年半も欧米を回った。

 こうして当時の日本人女性としては異例の経歴と行動力を持った河井に、フェラーズは出会ったのである。「ミチ・カワイは傑出している」と思ったのも当然である。


4.ラフカディオ・ハーンに導かれて

 日本に魅惑され、もっと理解を深めたいと思ったフェラーズは、ラフカディオ・ハーン[d]の著作を見つけた。その後、数年で「ハーンの本はすべて読んだ」というほど魅了された。フェラーズは日本を再訪した際には、ハーンの未亡人を訪れ、遺児の面倒まで見るようになる。

 フェラーズは後にアメリカ陸軍きっての日本通となり、各種の論文や報告書を書くが、その一つ、対日戦のテキストとして広く読まれた「日本兵の心理」ではおおよそ次のように述べている。まさにハーンの日本観に基づいた見解である。
 日本人は祖先は神であると考える。死者に対する尊敬や親に対する孝道が日本人の特色である。
 欧米では天皇は現人神としてゴッド・エンペラーなどと訳されおり、「人間をゴッドのように崇める狂信」として反感や警戒心を与えていた。フェラーズは「ゴッド」と日本の「カミ」とは違うことに気がついていた。そこから天皇についても、こう理解した。
 天皇は権威の象徴である。明治時代以前は天皇は実際には国を治めていなかった。最強の武家が天皇の上にいて国を統治していた。各武家は天皇を自らの味方につけようと戦った。だがたとえどの武家が天皇を味方につけようとも、国民が最大の敬意を払うのは天皇であり、天皇以上に国民から愛着を持たれる者はこの国には存在しない。[1,p49]
 太平洋戦争中、フェラーズは対日心理作戦の責任者となる。そして日本国民に空からビラを撒く作戦を展開するが、そのビラの一つにはこんな文句があった。
 今日4月29日は御目出度い天長節であります。・・・戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生日の日に戦捷(せんしょう、戦勝)を御報告申し上げる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れてゐるのでせう。軍首脳部は果たして何時まで陛下を欺(あざむ)き奉る事が出来るでせうか。[1,p144]
 国民の天皇への敬意を尊重しつつ、軍首脳部を攻撃するビラは、その戦意を挫く上で多大の効果があった、と東条英機・首相も認めている。


5.日米戦争を避けるために

 河井は昭和4(1929)年4月に恵泉女学園を創設した。米国留学までした河井は当時の女性としては傑出した存在だったが、「女が少しばかり学問に励んだからといって家事ができないなどというのは恥です」と、学生寮では炊事、洗濯からトイレ掃除、風呂焚きまで教えた。教室の窓ガラスを生徒と一緒にせっせと磨き、雑巾を拭いた後が残ると見苦しいと叱って、やり直しを命じた。

 第一期生を送り出した昭和9(1934)年4月7日、一通の手紙がアメリカから届いた。アメリカ・キリスト教連合婦人会から、「私たちの国の戦争の風説に反対するために、あなたのメッセージが必要です」との講演の依頼だった。アメリカでの日系移民排斥や日本の満州事変をきっかけに、日米関係は険悪になりつつあった。

 師の新渡戸稲造は2年前に渡米して、全米で約百回の講演をこなした。昭和天皇からもじきじきに、両国の和解に骨折って貰いたい、とも依頼された。新渡戸は知人にこう語っている。
 本当に陛下は御立派な方だよ。私心なんかこれほどもおありにならない。そういう陛下を戴いている日本は本当に幸せなんだ。[1,p100]
 しかし、新渡戸は前年の昭和8年10月にカナダのビクトリアで客死していた。師の志を継ぐべく、河井は8月から12月までの4ヶ月間で全米60余の都市を回り、約2百回の講演を行った。この際に、ニューヨークで世話をしたのが、冒頭、横浜のホテル・ニューグランド支配人の中山武夫夫妻だった。

 カンザス市ではエリート養成学校・陸軍指揮幕僚大学に学んでいたフェラーズが河井を迎え、二人は時の過ぎるのを忘れて語り合った。河井はこの時のフェラーズの態度を「実に公平な議論をして、自国の反省すべき点」を語り、日本兵士の忠誠に敬意を表した、と回想している。

「公平な議論」とは、ルーズベルト大統領が大恐慌以来の経済的危機を避けるために、さまざまな挑
発をしかけている、というフェラーズの認識である。


6.皇室への敬愛

 戦争が始まると、河井はよく生徒たちに「この戦争は間違っている」と語り、憲兵隊に呼び出された事もあった。軍や文部省から御真影(両陛下のお写真)を校内に掲げるよう要請があったが、「校舎があまりにお粗末すぎて、大切なお写真をお預かりするにふさわしい部屋も安全な場所もありません」と、言葉巧みに逃げた。

 しかし宮城遙拝では、頭を上げるのが早い、と生徒たちを叱ったりしている。キリスト教徒として、天皇をゴッドのように礼拝はしないが、国民としての心からの敬意は払う、というのが、河井の立場だった。

 終戦の日に玉音放送を聞いた時の思いを、後にこう自伝に書いている。
 この未曾有の国家的危機に際して、・・・「大道を誤り、信義を世界に失う如き」を戒めよという天皇の父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった。天皇に対する代々の忠誠心は、塵や埃のように一吹の風にあえなく散ってしまいはしない。[1,p179]

7.「私がいの一番に死にます」
 7百万の日本兵が降伏したなんて、まるで奇跡のようだ。日本を占領するために、どれだけの日米の兵士、民間人の命が犠牲になったか考えてみて欲しい。[1,p209]
と、フェラーズは家族への手紙に書いているが、天皇の玉音放送で7百万の将兵がただちに矛を収め、整然と武装解除されつつある姿を見て[e]、フェラーズは「国民が最大の敬意を払うのは天皇」という自分の洞察が正しいという確信を深めた。

 9月11日、東条英機ら39人が逮捕された。天皇を護るために早く手を打たねばならない。9月23日、来日3週間目にようやくフェラーズは河井道と再会できた。

「仮にの話ですが、もし天皇を処刑するということになったら、あなたはどう思いますか」と聞くフェラーズに、河井は答えた。
 日本人はそのような事態を決して受け入れないでしょう。もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に死にます。・・・もし、陛下が殺されるようなことがあったら、血なまぐさい反乱が起きるに違いありません。
 フェラーズは、玉音放送後の整然たる降伏と武装解除を目の当たりにし、さらにこの河井の言葉を聞いて、腹を固めた。もし天皇を処刑したら、日本国内は血なまぐさい反乱で収拾がつかなくなる。占領統治を円滑に進める最善の方法は、天皇を罰することではなく、逆にその力を借りることである。

 フェラーズは、マッカーサーに天皇の処遇に関する意見書を早急にまとめるので、ぜひ力を貸して欲しい、と河井に頼んだ。


8.「陛下にお目にかかれて光栄です」

 4日後、その天皇の姿がフェラーズの目の前にあった。9月27日午前10時、昭和天皇が米国大使館にマッカーサーを訪ねたのだった。出迎えたフェラーズに、天皇はトップハットをとり、日本語で「お会いできてうれしい」と挨拶しながら軽くお辞儀をして、手を差し出した。フェラーズは天皇の手を握り、英語で「陛下にお目にかかれて光栄です」と答えた。

 後のマッカーサーの証言では、この会見で昭和天皇は「戦争の全責任をとる」と発言して、彼の心を揺すぶった[e]。天皇は深く覚悟されて会見に臨まれたのだが、アメリカ大使館で最初に出迎えたフェラーズの応対は、そのお気持ちをなごませた。天皇は後にフェラーズに次のようなお言葉を伝えられている。
 あなたが温かく迎えてくださったときから、私はマッカーサー元帥との関係がうまくいくだろうと思いました。
 昭和天皇は、この「温かく迎えた」相手がアメリカ陸軍きっての親日家、知日家である事など予想だにされなかっただろう。まして、彼が天皇ご自身を戦犯裁判から救わねばならないとの覚悟を内心に秘めていたとは。

(文責:伊勢雅臣)

参考

岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし―河井道とボナー・フェラーズ」ホーム社

国際派日本人養成講座 平成十七年三月二十七日 三百八十八号
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by unkotamezou | 2005-03-27 17:07 | 歴史 傳統 文化