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東京大空襲から六十年
東京大空襲から60年 悲劇語る2枚の地図 犠牲1700人「死の数時間」記録

 約三時間にわたる夜間爆撃で下町を中心に十万人以上が亡くなった東京大空襲から十日で六十年を迎える。これまで大空襲を客観的に記録した公的史料は少なく、実証的な研究もあまりされていなかったが、東京都江戸東京博物館(墨田区)の学芸員らが、最近発見された遭難者名簿や米軍資料などから、当日の爆撃・火災状況や犠牲者の行動を記した二枚の被災地図を初めて作製。東京大空襲の全体像の分析に取り組んでいる。

 被災地図を作製したのは江戸東京博物館のほか、すみだ郷土文化資料館、豊島区立郷土資料館の学芸員ら。

 米軍は昭和十九年十一月下旬から都内を断続的に爆撃していた。東京大空襲は、低空から夜の市街地を無差別に狙った初めての作戦だった。

 東京大空襲の爆撃・火災状況に関する被災地図は、米軍の作戦任務報告や警視庁消防部(現東京消防庁)の資料をもとに作製した。地図は各地区の被弾時間や延焼の様子を詳細に記録している。

 地図の記載によると、米軍は確実に焼失予定区域を焼き払うため、同区域内にある浅草、本所、深川、日本橋の四地点を照準点に設定し、B29爆撃機の部隊を四つに振り分けた。

 二十年三月九日夜、太平洋のマリアナ諸島を飛び立ったB29爆撃機三百二十五機は、四つの照準点を目指し深夜には東京の下町上空へ到達。日本橋を狙った(実際は深川に着弾)十日午前零時七分の投弾を皮切りに大規模爆撃が始まった。

 当日は北西の強い風が吹いており、風上にあたる西側から始まった爆撃による火災で、焼失予定区域に入っていなかった城東区(現江東区東部)を含む約二十七万戸が焼失。爆撃は午前三時前まで二時間五十三分続き、約三十六万発の焼夷(しょうい)弾が投下された。火は夜明けまで燃え続けた。

 大火災の中、逃げまどった被災者の動きを示したのがもう一枚の被災地図。四年前に発見された「都内戦災者霊名簿」の原簿をもとに作製した。犠牲者約千七百人分の住所地と遭難地を地図上で結び、犠牲者の「死の数時間」を浮かび上がらせている。

 東京大空襲の初期段階に爆撃に遭った浅草周辺。空襲時に消火活動が法律で義務付けられており、多くの人が逃げ遅れて自宅付近で死亡した。命からがら逃げ出した人たちも、強い北西風による炎に追い立てられるように隅田川の言問橋へ向かったが、橋にたどり着くころには対岸の本所がすでに火の海に。逃げ場を失った避難者は、隅田川に飛び込むか、橋の上で火に包まれるしかなかった。

 火災の発生が比較的遅かった本所地区。住民は大空襲から約二十年前の関東大震災で鉄筋に建て替えられた国民学校へ避難したが、周辺からの延焼による大火災で校舎内に火が入り込み、多くの人々が犠牲に。また、熱風に追われて総武線の南方向へ避難した人たちは、初期に火災が発生した深川方面からの避難者と、菊川橋付近で鉢合わせになり、多くの人たちが身動きが取れなくなって命を落とした。

 二枚の被災地図は、江戸東京博物館で開催中の「東京大空襲60年-犠牲者の軌跡-」(四月十日まで)の中で展示されている。

 地図の作製に携わったすみだ郷土文化資料館の田中禎昭専門員は「これまで断片的だった被災者個人の証言に被災地図の情報を組み合わせれば、被災者の避難行動の意味、背景も明確になるだろう。研究の成果は、首都直下型地震で大火災が発生した際の防災対策にも生かせるのでは」と話している。
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by unkotamezou | 2005-03-10 08:30 | 歴史 傳統 文化